預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

福島原発事故被害救済九州訴訟

 提訴から5年。いよいよ結審を迎える。来たる12月23日だ。提訴の時は確か12月24日だったが、今度もまたクリスマスの年末の忙しい時期だ。
 原告団長として最終弁論に臨むのだが、私は「損害論」について弁論する。通常、弁論というものは、あらかじめ作った文章を準備書面として提出して、それを皆が手元に持ってる状態で証人台に立って読み上げるだけなのだが、今度は違う。弁護団との会議で「牧師としていつもしてる説教のような弁論を」ということになったのだ。作文を読み上げるのではなく、自分の言葉で、魂に語りかけるように、心を揺さぶる弁論を、ということだ。
 とは言え、準備書面として提出しないわけにはいかないので、その作文をしているところだが、まあ、こんな弁論は、裁判所ではおそらく普通は聞くことはできないタイプのものだろう。「生きるとは何か」「人生とは何か」…それを奪われたらどうなるか、その「損害」を語る。
 けど、言うは易し、する博多氏。するは難し。会議にかけてダメ出し食らわないように全力を尽くそう。
 ああ、忙しい。仕事する暇がない。のんびり仕事がしたいなあ。

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