預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

地上のことばっかりだとねぇ…(ローマ6:1~5)

6:1 それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。
6:2 絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。
6:3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
6:5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。



 クリスチャンは、キリストの十字架と復活に与るのだと聖書は言う。それは、十字架と復活を追体験することだとも言える。つまり、キリストが十字架で死なれ葬られたように、水に浸されることによって罪ある古い自分は死ぬ。そして、キリストが復活されたように、水から上がって新しい命を生きるようになる。そのように、キリストを信じるということは、言わば、人生をやり直すことが出来るようになる、ということなのだ。


 しかし、そんなクリスチャンも当然ながら、いずれは死ぬ。それは避けられない。聖書の言う通り、人は一度死ぬことが定まっている。だが、やはり、幸いなことに、キリストを信じる者には、キリストと同じようになること、すなわち、復活(永遠の後・天国)が約束されているのだ。


 もし、復活がないなら(地上の人生だけしかないなら)、私達人間は、悲しみや苦しみなどから逃れることが決して出来ない。何故なら、生きている限り、問題はなくならないからだ。病、老化、死……それら、解決の無い問題は、地上に生きる限り、付きまとって来る


 だから聖書は言う。地上のことだけを思わないで、天にあるものを思いなさい、と。そうすれば、この世の苦しみ・悲しみ・恨み・憎しみ・痛み・悩みから逃れることが出来る。


 例えば、誰でも、愛する人を亡くすのは悲しく寂しい。だけど、クリスチャンは、絶望ではない。死んで終わりではないからだ。天国でまた会えるからだ。そのように、信仰を持てば問題が無くなるというのではなく、問題に「勝つ」のだ。すなわち、この世(の苦しみ)に勝つのだ。 


 だから、死に直面する(それは決して避けられない、いつか必ず来る)とき「これは復活へのステップだ」と思えるかどうか、そこが信仰である。そして、それが、「この世の苦しみに勝つ」信仰なのである。その信仰を更に堅くし、この世の人生に勝利する者となろう。

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