預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

思い通りになる?(ローマ10:11~17)

10:11 聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」
10:12 ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。
10:13 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。
10:14 しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。
10:15 遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」
10:16 しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。」とイザヤは言っています。
10:17 そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。



 信仰の土台は、人間の教えにではなく、神の御言葉にこそ置くべきである。何故なら、御言葉は、揺るぐことのない真理だからだ。その聖書が「こうだ」と言えばこそ、素直に「アーメン」と言うことが出来る。


 そこで、聖書は言う。『彼に信頼する者は失望させられることがない』と。


 決して、クリスチャンは失望しない、という意味ではない


 クリスチャンとはいえ、ガッカリすることぐらいある。この世にあって、何もかも思い通りに行くはずがない自分の勝手な願いが潰えたからといって、「神に失望させられた」と言うのはお門違いである


 そもそも、初めから神は、「信じたら、人生、何でも思い通りになる」などという約束はしていない。神の約束、それは『主の御名を呼ぶ者は誰でも救われる』だ。この点において、『信頼する者は失望させられることがない』と、ここでは言われているのである


 つまり、主イエスを信じるなら、必ず救われる。罪は赦されて天国に行ける。この約束は必ず実現する。裏切られはしない、ということなのだ。それに伴い、平安と感謝と喜びを持って日々を歩むことが出来るようにもなる。


 そのような信仰の始まり、それが「聞く」ことである。それも(新改訳聖書の)脚注にあるように、『キリストの言葉』を聞くことが大切だ


 と言うのは、「キリストについての教え」にもピンからキリまで色々あって、何でも聞けばいいというわけにはいかないからだ。聖書も、『混じり気のない純粋な御言葉の乳を慕い求めなさい』と教えている。


 何かが混じった「キリストについての教え」ではなく、「キリストの教え」られたこと(その本当の意味……主イエスは実は、何をおっしゃったのか)を聞かなければならない。それが、「キリストの言葉」を聞く、ということだ。それでこそ、そこから本物の信仰(主は裏切らない、主の約束は必ず実現する。だから、どんな時も揺るがず、主に委ねられる、という信仰)が始まる。


 たとえ、思い通りにならないことがあっても、私達は、自分の心の声や、人の言葉を聞くのではなく、神の言葉を聞くことを選びとろう。そこから信仰が始まる。そして、主への信頼が確立される。

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