預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

本物の信仰(ヨハネ14:25~27)

14:25 このことをわたしは、あなたがたといっしょにいる間に、あなたがたに話しました。
14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
14:27 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。



 主がロバの子に乗ってエルサレムに入られた時、人々は大歓迎した。主がラザロをよみがえらせた奇跡によって、信じるようになっていたのである。
 しかし、その人々は、それからわずか5日後に「イエスを殺せ」と叫ぶ


 一方、「たとえ死んでも…」と『弟子達はみな言った』(マタイ26:35)。が、その後、彼らはみな、主を『見捨てて逃げてしまった(マルコ14:50)のである。
 結局、弟子達も、群衆も、その時点ではまだ本物の信仰ではなかった、ということだ。


 そんな弟子達に主は予め、愛を残る所なく示そうとして(弟子達を励まし、力付け、助け、本物の信仰へと導く為に)語られた教え、それが「告別の説教」であるが、その中で、主は「聖霊を送る」と約束された。聖霊が来たら信仰が本当に分かるようになる、というのだ


 本物の信仰とは、どのようなものであるか。
 例えば、いざという時に信仰を捨てて逃げたりしない、主を裏切らない、どんな時も主に信頼して、信仰によって平安が保たれる、そういうものかもしれない。


 とにかく主は『わたしの平安を与える』と言われた。それは、この世の平安とは違う、神の国の平安だ。そして、神が支配される所が神の国であるのだから、私達が神の御霊に満たされる時、そこに神の国(主の平安)が実現するのであるその為に、聖霊を送る、それが主の愛なのだ


 復活の後、主は怯える弟子達に言われた。『平安あれ』と。ただ無責任に言うだけではない。聖霊を受けなさい』と、平安を得ることの出来る道を具体的に示されたのだ


 神の国の平安、そこには混乱は無い。あるのは、平和(秩序)だ。
 言いかえれば、順番が守られている、ということだ。


 一番となるべきは何か。神の国と神の栄光である
 だから、心の平和の為には、それが一番でなければならないその順番を崩すなら、秩序(平和)が崩れる
 私達は、聖霊に満たされ(神の支配を受け入れて)、心の平安を保とう。

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