預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

証人に、なっとく?(ルカ24:44~48)

24:44 さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」
24:45 そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、
24:46 こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、
24:47 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。
24:48 あなたがたは、これらのことの証人です



 よみがえり、ということを唐突に聞かされても、にわかには信じ難いかもしれない。しかし弟子達は、予め、そのことを聞いていたし、聞いた通りになったし、自分の目で見て触って確認もした。それでも、『嬉しさのあまり』信じられなかった。


 嬉しい、ということは、拒否しているわけではない、喜んでいるのだ。なのに、信じられなかったのであるいったい「信じる」とは、信仰とは、何なのだろうか


 AWトウザーが言うように、「何でも信じる人は、何をも信じない人と同じくらい神から離れている」のであって、少なくとも、根拠の無いものを簡単に信じるべきではない信じるために必要なのは、確かな根拠だそれが無い(ゆえに納得できない)時、人は「信じられない」と言う
 ということは、「信じる」とは「納得すること」と言ってもいいのかもしれないだから主は、嬉し過ぎて信じられない(霊ではないかと疑う)弟子達に、納得できるように、魚を食べて見せられた


 そこで、多くの人は、科学に根拠を求める。しかしながら、科学は、宇宙のなんたるかも何も解明はしていない。間違いやウソもある。その点、聖書が真実であることは、歴史も考古学も、科学でさえも証明している。私達は、夢か幻のような、空想話を信じるのではない。納得できる根拠(真実)が聖書にはある。だから信じるのだ。


 主は、納得できないでいた弟子達に、聖書の真実を悟らせるために預言の確かさを解き明かされた。十字架と復活だ。その舞台であるエルサレム。さらにそこで約束の聖霊が降臨し、そこで教会が誕生した。それは決して偶然ではない。その同じ場所で、十字架と復活の予表として、イサクが捧げられていた。神の初めからの計画通り、エルサレムは、『主がご自分の名を置くために選んだ町』(Ⅰ列王記14:21)なのだ。


 神の計画は必ず実現する。それを悟らせるのが、預言の成就(キリストの復活)だ。そして復活の主は、納得できるように『数多くの確かな証拠をもって』ご自分が生きていることを示された。私達は、この「確かな」お方に信頼しよう。そうすれば大丈夫だ、ということの証人、それが弟子達である。私達も、信じて、証明できる者となろう。

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