預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

付け加えていいんです(マタイ8:23~27)

8:23 イエスが舟にお乗りになると、弟子たちも従った。
8:24 すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。ところが、イエスは眠っておられた。
8:25 弟子たちはイエスのみもとに来て、イエスを起こして言った。「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。」
8:26 イエスは言われた。「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。
8:27 人々は驚いてこう言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」



 嵐を恐がる弟子達に、主は「信仰の薄い者たち」と叱り、嵐を静められた。マタイ6:30でも、主は「信仰の薄い人たち」と弟子達に語られた。恐れ、不安から解放される為には、薄い信仰ではダメなのだ。


 ただ、「信仰が薄い」(オリゴピストス)というギリシャ語は、特殊な言葉で、一般的なギリシャ語には使われない言葉だそうである。聖書とキリスト教文献にだけ使われているのだ。その聖書の中でも、この言葉は、弟子達に対してだけ使われている。群衆に対して使われるのは「不信仰」(アピストス、又は、アピスティア)だ。


 その理由は、マタイ13:10~13にあると思われる。弟子達には(群衆とは違って)神の国の奥義を知ることが許されていて、それゆえに更に与えられ豊かになるはずなのに、信仰が薄い(足りない=オリゴピスティア)のはどうしたことか、というわけだ。エマオの途上で主が言われたように、弟子達は、預言者達の言葉の全てをではなく、一部分しか信じていなかった。「信じていたこと」の数が少ないのである。


 信仰は、ある意味「増やす」ものなのだ。弟子達は主に、それを求めた(ルカ17:5参照)。その言葉は「プロスティセミ」(「重ねる」等の意)であり、最も有力な意味は「付け加える」である。


 弟子達は何を信じていたのか。彼らは、「主よ、助けて下さい」と叫んだ。イエスは主、助けることが出来るお方、と信じていたのだ。しかし、その信仰だけでは足りなかったその上に更に付け足して、重ねなければならないのだ。「神が共にいる」という信仰をそして「神が共にいるなら大丈夫だ」という信仰を
 事実、主は、同じ船に、共におられた。そして、嵐などものともせず、眠っておられた。「それほどの全能の神が共にいるから大丈夫」という信仰が足りないのだ


 今、目に見えない神を信じている私達には、見ていた弟子達以上に、この信仰が必要だ。その為に御言葉の約束を握ろう。主は世の終わりまでいつも共にいて下さる(インマヌエルなる)お方だ。それがキリストであるとイザヤは預言した。その上に更に、「主は憐れみ深いお方だ」という信仰も付け加えよう。そのように「主はどのようなお方か」を沢山知ることが、信仰を増し加えることになるのだから。

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