預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇124(都上りの歌⑤)

 この世には2種類の人間がいる。霊的に、神の側に居る人と、そうでない人だ。もし、神に敵対する側に居たら滅びる、というのが2~5節である。だから、もしも神が味方でなかったら、と想像してごらん(1節)と言うのである。神だけは敵に回すべきではない。


 ただ、神が味方とはどういうことか、だ。神の側に居るのか居ないのか、その線引きは何によるのか。たとえクリスチャンでも神に敵対するということが有り得る。拝金主義などがそれだ。


 所が主は言われた。「私達に反対しない者は味方」だと。「イエスは主だ」と言いさえすれば、異端でも仲間だということだろうか。いや聖書は、異端は滅びに至るとはっきり言う。すると、主イエスに反対はしていないけれど仲間ではないということになる。


 他方、信仰に反対はしないが自分は拒否するという人がいる。反対はしていないのだから味方だ。だからと言って、決して救われているわけではない。ただ、チャンスはある。神の敵側に居るよりははるかに。つまり「信者でない夫は妻によって聖められている」(Ⅰコリント7章)というのは、救われているのではなく、聖別されている(神のために取り置きされている)状態であって、信者である妻と共に居る限り、本当に神のものになれるチャンスは豊かにあるということなのだ。ただし問題は、敵の罠(偶像等)に引っ掛かっているということである。


 そこで詩人は言う。「私達は仕掛けられた罠から鳥のように助け出された」(124:7)と。鳥は自力では籠の戸を開けられない。だから私達は、聖霊によって罪・滅びという鳥籠から救い出されたのだ。そのチャンスを掴むには神の側に居る方が有利なのである。


 もう一つ、この詩(2~5節)は「世の終わりの滅亡」を表現している。それは人間の力では逃れられない。外からの力によって助け出されるしかない。それが携挙(鳥のように救い出される時)なのだ。そのとき、もし神が味方でなかったら…、神の側に留まっていなかったら…。


 私達は神の側に留まり続けよう。反対しない(主を信じている)だけでなく、御教えに従う者となろう。そうすれば、世の終わりのときにも、鳥のように助け出されるのだ。

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