預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇86(アンビバレント)

 嘆き祈るダビデ。一日中、何日も祈り続けるが神は答えてくれない。焦れる。が、同時に「必ず答えてくれる」という確信もあると記すダビデ(7節)。どっちなのか。8~10節を見ると、決して神を疑ってはいない。神の偉大さの前にへりくだって崇めている。それゆえに主の道を歩みます(11節)と言う。なのに嘆いているのだ。
 これは何かの預言なのか。神が答えてくれない故の嘆きと、神は願いを聞いてくれるという確信、その相反する2つの思いが一人の中に同居しているのである。これが預言なら、いつ、それが成就したのか。
 1節の最後は、新共同訳では『私は貧しく、身を屈めています』であり、「屈める」は、重荷に体が曲がって倒れ伏す姿を示すのだという。単なる祈りではなく、苦しみのあまり死ぬ程の祈りなのだ。これはゲツセマネでの主の姿を想起させる。
 確かに、主の願い(苦い杯、すなわち十字架を取り除いてという祈り)に父なる神は答えなかった。しかし主は「父はいつも自分の願いを聞いてくれると知っている」と確信していたお方だ。相反する2つが同居する時(詩篇86の預言の成就の時)それがゲツセマネなのだ。ゆえに11節は「父の御心をなして下さい(十字架の道を歩ませて下さい)」という祈りによって成就したと言える。すると14節は、主を殺そうとする祭司長達であり、必然的に13、15~17節は復活の希望だ。
 問題は、この事(ゲツセマネを暗示した詩)から何を学ぶかである。一つには「神の慈しみは示されている」という事だ。17節では「慈しみのしるしを示して」と訴えるが、復活こそが、そのしるしである。それは主にとっては慰めであり励ましであったし、私達にとっても、苦悶の中で勇気と力となる、まさに神の慈しみなのである。もう一つ学ぶべきは「御心をなして」という祈りだ。11節にあるように、私が歩むべき(主の示す)道はどっちなのか。自分の願いではなく神の御心を求める(御名を恐れる)者となる為に必要な祈りである。それがゲツセマネからの最大の学びではないだろうか。
 私達も祈ろう。「神の真理の道を歩めるように示して下さい」と。「私の願いではなく御心をなして下さい」と。

×

非ログインユーザーとして返信する