預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

愛(第一コリント13章)

 愛とは……? 色々な説明の仕方があろうけれども、一つは、愛するとは、「大切にすること」と言うことが出来る。それゆえ、相手の最善となることを求め行う。当然、そこには厳しさも伴う。甘やかすこと(何でも許すこと)が愛なのではない


 さて、聖書は、神からの愛の言葉である。私達人間にとっての最善を願ってのものだ。すなわち、キリストに導いて自由と解放を与える(罪の赦しと永遠の命へと導く)為のものなのである。ゆえに、旧約の律法も、キリストに導く為に正しく用いられてこそ意味がある。例えば、申命記21:18~21だ。簡単に言えば、「親に逆らう子供は殺してしまえ」ということだ。「この教えも守るべきだ」と主張する人々がいるが、しかし、「子供を殺せ」という教えを聞いて、クリスチャンになりたがる人がいるだろうか。


 聖書は、特定の民族の、特定の時代・社会の中で、特定の状況を前提として語っているのが大部分であり、それを、「いつどこででも通用する普遍的な掟」として読んではいけない。それを無視して、全ての教えを生活に当てはめようとすれば大変なことになる。


 問題は、「何が本当に人間の為になるのか」だ。神は、その「人間の為」を願って聖書を与えられた。しかし、その聖書の言葉が、時に、人間の為にならない形で使われてしまう(本末転倒している)場合がある。


 例えば、『安息日(律法)の為に人間があるのではない。人間の為に安息日がある』(マルコ2:23~27)とイエスは言われた。そう、人間の幸せの為に安息日はあるのだ。なのに「安息日厳守だ。死んでも守れ!」……ここまで行けば、本末転倒である。


 どこまでが人間の為か、どこからが律法の為になってしまうのか。裁くな」という戒めを守って、罪を放置するのが人の為なのか。裁いてでも罪を取り除くのが人の為か。そこに本当の愛が必要だ。何でも目をつぶる(責めない、甘くする)……そこに愛はない


 だから聖書は言う。愛を追い求めなさい、と。その意味で、究極の最善は、人々をキリストに導くことだ。それを追い求めよう。

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