預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇127(都上りの歌⑧)

都上りの歌。ソロモンによる


127:1 主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。
2 あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。
3 見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。
4 若い時の子らはまさに勇士の手にある矢のようだ。
5 幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。彼らは、門で敵と語る時にも、恥を見ることがない。


 1節は、家を建てる時には主の名によって定礎式を…、主が町を守って下さるように祈りながら歩こう…、そんな安直な教えではない。2節も不思議だ。何故、主が愛する者の為に虚しいものを備えるのか。


 理解の鍵は「虚しい」という言葉だ。1~2節は、人の労苦を表現している。つまり、朝早く起きて夜遅くまで働いて自分の家を建てて平和な町で暮らす事を求め、その為に辛苦の糧を食べる、それが人なのだが、神抜きではその人生は虚しいという事なのである。


 神無き人生は虚しく、死ねば全ては無駄となる。それはソロモンの教えに共通する。しかし、主が愛する者には「眠りを与える(直訳)」。その目的は「復活と永遠の命」である。すなわち、人が地上で求めていた平和と幸せを備えるという事だ。これも都上りの歌なのである。


 問題は3~5節。まるで「子沢山=老後が安心」と言っているかのようだ。親の面倒を見させる為に子供は存在すると言うのだろうか。


 聖書のメッセージの中心、それは勿論「悔い改めて天国に入れ」である。常にその視点に立って読む事が必要だが、学術的な研究も欠かせない。と言うのは、5節の「門」は当時の討論や裁判の場所だった事が研究によって分かっているのだ。その上で聖書理解の大切な視点に立つなら、「門」は天国に入る前の裁判、すなわち最後の審判を表すという事になる。その時にも安心なのは誰かという事だ。


 たとえ子沢山でも、自らが幸いでなければ意味が無い(伝道者6:3~6参照)。本当の幸いは神を知る事だ。その上で人生を楽しめとソロモンは教える(同9:9)。言わば、主にあっての家庭を築け、という事だ。そうでなければ全ては虚しい、と言うのが詩篇127:1~2なのだ。


 それを受けての3~5節(子沢山は安心)が意味するのは、神を知った上で祝福された人生を歩むなら…という事であって、子供の数が問題なのではない。要は、神にあっての正しい生き方(人生)を歩め、という事だ。そうすれば、最後の審判の時も安心だ、と。


 聖書の言葉を安直に理解してはいけない。聖書の目的は、いかにして天国に入るかだ。その御心に適うように、正しい信仰を持って歩み、その上で人生を楽しもう。それこそが主の賜物であるのだから。

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