預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇37:23~29

 「人の歩みが確かにされる」とは、人生が安定する、ということだろうか。いや、続く24節では『その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない』とある。その人は倒れない、とは言っていない。倒れても致命傷にはならないだけで、普通に倒れることもあるということだ。それを「安定」とは言えない。そもそも、世にあっては患難がある。人生は一歩先が見えない、そういうものだ。しかし、主に信頼して正しく生きる人は「地(新天新地・天国)を受け継ぐ」。その信仰の道を行く人の歩みは確かにそうなる(天国に行ける)ということ、それが『人の歩みは主によって確かにされる』ということなのだ。たとえ、倒れることがあっても(最悪、死んでも)破滅ではない。主の(天国の)約束に支えられているからだ。
 そのような正しい人(信仰者)が見捨てられたり、その子孫が飢えるなどということを見たことがない、とダビデは言う。しかし、日本でも迫害されて非業の死を遂げた沢山の信仰者達がいた。子供達に食べさせる物がなく、飢えて、やむにやまれず農民一揆を起こした信仰者達が天草にいた。そういうことを彼は知らないから言うのだろうか。いや、実はこれはダビデの親友ヨナタンと、その子メフィボシェテのことを言っているのである。ヨナタンは父サウル王に背いてでも、ダビデの命を守り助けた、正しい人だった。最終的にはヨナタンは戦死するが、決して見捨てられてはいない。魂は神の御手によって守られている。『その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない』ということだ。そして、その子孫も飢えることのないようにと、ダビデ王の食卓に着くようにされた。神のしもべに善を行う者は見捨てられないのである。主も言われた。「神のしもべに水一杯でも飲ませるなら、その人は決して報いに漏れない」と(マタイ10:42、25:40参照)。そう、神の子供達に対してしたことが、主にしたことなのである。
 だから、主にあって(神の家族に)善を行え、それが神に従う生き方だということである。その歩みは主が確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。倒れることがあっても、支えて下さる。守って下さる。信じて、神に従い、神の家族に善を行う歩みをしよう。

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