預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇126(都上りの歌⑦)

126:1 主がシオンの捕われ人を帰されたとき、私たちは夢を見ている者のようであった。


126:2 そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。そのとき、国々の間で、人々は言った。「主は彼らのために大いなることをなされた。」


126:3 主は私たちのために大いなることをなされ、私たちは喜んだ。


126:4 主よ。ネゲブの流れのように、私たちの捕われ人を帰らせてください。


126:5 涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。


126:6 種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。


 これは夢かと思うほどの驚くべき神の救いの御業、それがバビロン捕囚からの解放だ。が、詩人はその喜びを思い出してこの詩を書いたのではなく、今から起こることとして「その時にはこうなる」と預言的に書いたと思われる。では、その時とはいつか。


 バビロン捕囚からの解放は、第2の出エジプトであり「キリストによる救いの雛形」であるから、それが「その時」なのか。いや、しかし「その時、国々の間で人々が主を賛美した」かと言えば必ずしもそうではない。クリスチャンになった時、家族から反対された人がいる。友人が離れてしまった人もいるだろう。果たして、その時、国々(神の民でない人々)が「これは主の御業だ」と言う時はいつなのか。


 鍵は出エジプトだ。それら(第1と第2)は第3の出エジプト(キリストによる救い)の予表であるが、まだもう一つの出エジプトがある。携挙だ。リアルにこの世からの脱出の時である。その時、世界中の人々がそれを見る。そして驚きの声を上げるのである。「クリスチャンが言ってた通りだ! という事は、これはキリストの業だ!」と。この詩(特に2節)は、その時のことを預言しているのだ。


 これでようやく1節の意味も開かれてくる。携挙…もしかしたらそれは、夢みたいな話だと思えてしまうかもしれない、というようなことだ。確かに、クリスチャンでなければ到底信じられないだろう。しかし、それが起きた時には私達は喜びで満たされるのだ。そして、国々の間で人々は驚きの声を上げる。だから、それを「主よ、私達の為に成し遂げて下さい」(3節・新共同訳)と詩人は祈る。すなわち「救って下さい」という事だ。そして4節に繋がる。
 5~6節は、伝道が成功するというような事ではない。刈り取り(収穫)は、終わりの時の事だと聖書は教えている。それまで地上の信仰生活には苦労がある。涙と共に御言葉を自分の心の畑に(神の家族にも)蒔き続ける必要があるのだ。それには忍耐が求められる(ヤコブ5:7~11)。しかし必ず実りはある。真理の御言葉は、必ず魂を救う。その魂は喜び叫びながら天の都に帰って来るのだ。だから、これも都上りの歌なのである。その時まで、涙しつつも御言葉の種を自らの心に蒔き続けよう。

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