預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

生まれないほうが良かった?(マタイ26:20~28)

26:20 さて、夕方になって、イエスは十二弟子といっしょに食卓に着かれた。
26:21 みなが食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちひとりが、わたしを裏切ります。」
26:22 すると、弟子たちは非常に悲しんで、「主よ。まさか私のことではないでしょう。」とかわるがわるイエスに言った。
26:23 イエスは答えて言われた。「わたしといっしょに鉢に手を浸した者が、わたしを裏切るのです。
26:24 確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」
26:25 すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが答えて言った。「先生。まさか私のことではないでしょう。」イエスは彼に、「いや、そうだ。」と言われた。
26:26 また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」
26:27 また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。
26:28 これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。



 ユダは「裏切り者」と呼ばれるが、「神の御心の理解者」という評価もある


 と言うのは、十字架を妨げるのはサタンの働きであるわけだが(マタイ16:21~23参照)、その点、ユダは(御心が成るように十字架を推進したと言えるかもしれないからである。
 しかし主は、そのユダの行為を『切り』と言う。そして、『そんな人は生まれなかった方が良かった』と。


 とは言え、主はユダをやっつけようなどとはなさらず、ユダに悔い改めのチャンスを与えられた。それが、『あなた方の内の一人が私を裏切る』と語られたことに現れている
 それを聞いて弟子達は「もしや自分では?」と焦ったが、その時点では、誰が裏切り者なのかは弟子達には分からない。
 ただ、ユダにだけは(裏切る本人であるがゆえに)分かった。つまり、主は、ユダにだけ分かるように巧みに語りかけられたのだ。「そのまま行けば滅びだ、今気付け、止まれ、私にとどまれ」とのメッセージだったのである


 主を裏切ったまま、主の元に戻らないということが、どれほど不幸な結末を迎えるか地獄、その悲惨さ)、それは、苦しみのあまり、死にたいと思っても死ねず、「こんなことなら、いっそ、生れなかった方が良かった」と嘆く程に苦しみが永遠に続くのだ
 そこには、もはや救いが無い主は、何としてでも人間を救いたいのに、そうなってしまったら、もう救ってあげられないのだだから、主の言葉は、「そんなことになるぐらいなら、その人は、生れなかった方が、その人の為には、むしろ良かっただろう」という憐れみであり、愛なのだ


 決して、「ユダなんか生れなかったら良かったのに。あんな奴!」というような恨み節ではない。ユダも救われるべき魂だった。神の愛からこぼれてはいなかった。主はユダも救いたかった。その為に手を差し伸べられた。ユダは裏切り者であり続けることも、悔い改めることも、自分で選ぶことができた。けれども結局、戻って来なかった


 そんなことにならないように、私から離れるな、と主は言われるのだ。生れなかった方が良かった、というような結末は悲し過ぎる
 だから、生まれたからには救われたほうが良いのだ。そして、生きている限り、救いの道は開かれている。そのことを覚えよう。

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