大晦日は、やっぱり格闘技ですよね。 どうぞ良いお年を。
2019年12月のブログ記事
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イスラエルを敵が包囲している、そんな状況で神は沈黙を続けている。何故、神は動いて下さらないのか。この問題は、遠藤周作の小説よりはるか以前、旧約時代の昔から存在していたのだ。 歴史の事実として神は、いつも、毎回、全ての事に一つ一つ、細かく、介入する訳ではない。ステパノをはじめ、使徒達、多くの弟子... 続きをみる
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7日間で合計13回、エリコの城の周りを回ると城壁が崩れた。この出来事から「13回回れば神のものとする事が出来る」と「祈りの歩行」なるものがいつ頃からか流行し始めた。勿論、祈って歩く事が悪いとは言わないが、これを真似したからって海の水まで奇麗になるなどとはにわかには信じられない。そもそも、7日間回... 続きをみる
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原告番号1 金本友孝 この弁論は、私たち避難者の被害について述べるものですが、最後の弁論として強調したいのは、その金額ではありません。経済的損失などは言うまでもないことですが――あえて言えば、収入がゼロになるなど非常に大きな損害があります。けれども、それよりもっと深刻な、生きるために最も必要な「... 続きをみる
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今晩急遽、逝去の連絡が入りました。24時間以上置いてからの葬儀〜火葬となりますが、月曜は「福島原発事故被害救済九州訴訟」の結審の日で、原告団長として最終弁論をしなければならず、火曜も外せない予定があり、そうすると可能なのは日曜のクリスマス礼拝の後、午後からとならざるを得ないので、、、。うわあ 9月... 続きをみる
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キリスト教国と思われているアメリカでは、ずいぶん前から「メリークリスマス」という挨拶をやめようという「脱キリスト教」の動きが起きている。ほかにも、学校に聖書を持ってきてはいけないと決められたり、その動きは止まらない。それは、多民族国家ゆえに、宗教も多様で、一つの価値観を全員に押し付ける事が出来なく... 続きをみる
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これを作曲したのは1992年。録音したのは2001年。 あれは2002年だったか、関西の教会に特伝で招かれて、これを歌ったら、 「ええ歌でんなあ、CDないんでっか?」という方がいらっしゃって、 これをカセットテープ(!)にダビングして送ってあげたら、 「家宝にします」との礼状が返ってきたという名曲... 続きをみる
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12月23日、福岡地裁にて「福島原発事故被害救済九州訴訟」結審の時を迎えます。 当日、原告団長として最終弁論をしますが、それに先だって、過去の裁判での意見陳述などを載せています。 今日のは、2015年、ある機関誌の要請に応じて書いた文章です。 以下 福島県いわき市からの避難者 金本 友孝 私は騙... 続きをみる
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1節の「神は」の次に出て来る「神」は「エール」(力ある者・権力者)という単語であり、「神々」は脚注の通り「裁く者」の事である。つまり、神はイスラエルの権力者(宗教指導者)達の不正を裁くという事だ。彼らは本来なら、弱い者・貧しい者を助けるべきなのに、「悪者共の顔を立てる」(2節)のはどうした事かと... 続きをみる
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この際ついでに、いわゆる「玄海訴訟」の第二回期日での私の意見陳述も載せておきます。 以下 玄海原発差止等請求事件 意見陳述書 平成24年9月21日 佐賀地方裁判所 民事部 御中 原告 金 本 友 孝 1.私は、昨年3月、福島第一原発事故のため、妻と、当時17歳、13歳、10歳だった3人の子どもを... 続きをみる
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比喩ではなく、現実のエピソードと、現実の被害を訴える文章になったけど、そのほうが良かったみたい。 結果、ちょっとだけ、普通の弁論に近づいたような気がするけどなあ。 23日の裁判が終わったら、この場で公開しようと思いますので、皆様のご感想を伺えればと思います。 それまで、あとしばしお待ちくだされ。
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きのう書いた記事の続きです。 いつもの、教会での説教のような弁論を……とは言え、そこはやはり、裁判での弁論なので、まずは第一稿、ダメ出し頂きました。 比喩は、説教では当たり前なんですけど、そこを変えろ、と。 う~ん、今、リアルに説教準備しなきゃいけないので、とりあえず、そっち片付けるか。
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提訴から5年。いよいよ結審を迎える。来たる12月23日だ。提訴の時は確か12月24日だったが、今度もまたクリスマスの年末の忙しい時期だ。 原告団長として最終弁論に臨むのだが、私は「損害論」について弁論する。通常、弁論というものは、あらかじめ作った文章を準備書面として提出して、それを皆が手元に持... 続きをみる
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なんだかんだと忙しくて、のんびり仕事する暇がないんですう。 ( ̄^ ̄)
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「あなたがこれを知らないのなら山羊を飼え」(8節)という不思議。 「あなた」(女の中で最も美しい人=神の目に高価で尊いとされた信仰者)は何を知らないのか。それは「羊飼い(キリスト)の居所」である(7節)。主の牧場はどこなのか、どこで命の水を飲ませて頂けるのかを見失っているのである。同時に、自ら... 続きをみる
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イスラエルの祭り(1~3節)は、神が定めた(4節)。それは出エジプト(神の救いの御業)の証しの為であり、それを忘れないようにする(記念の)為なのだが、詩人は「知らなかった」と言う(5節)。新共同訳では「思いがけない言葉を聞いた」となっている。その言葉とは、6~10節の「出エジプトについての主の言... 続きをみる
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例によって、イスラエルは苦難の中にあり、詩人は「主よ、いつまで助けてくれないのですか」と訴える。そして14節から「主よ、どうか赦して」と求めるのだが、ポイントは17節「神の右の手の人」とは誰かだ。新共同訳では「神の右に立つ人」だが、その人は「神の為に強くされた人」でもある。その人に神の御手、すな... 続きをみる
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「主よ、いつまでですか」という訴えは、私達の中にも時として起きうる。例えば、家族の救いの時、問題の解決の時が来るのはいつなのか……というように。そしてそれは神に期待するが故の訴えだ。だが詩人は「神がいつまでも妬んでいる」と神を責めるかのように言う。 確かに普通「妬み」は、妬む側の一方的な問題だ... 続きをみる
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「たとえ話、昔からの謎を語ろう」(2節)と、詩人の意図は明瞭だ。そして、それを先祖代々語り告げるようにと神が定めたというのである(3~5節)。その目的は「のちの世代の者が神を恐れるようになる為」である(6~8節)。結論は明らかだ。「神を恐れよ」である。 尤もである。「それが人間にとって全てであ... 続きをみる
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雅歌とは、歌の中で最も優れた歌という事だが、何がそんなに良いのか。一読すると単なる恋文のように思える。視点もコロコロ変わるし、意味不明な文もある。これ位なら簡単に書けると言う詩人もいるかもしれない。しかし、雅歌の素晴らしさは技巧的な良し悪しにあるのではない。誰に対するどの様な愛を歌っているのかが... 続きをみる