預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇81(モーセは神を信じなかった)

 イスラエルの祭り(1~3節)は、神が定めた(4節)。それは出エジプト(神の救いの御業)の証しの為であり、それを忘れないようにする(記念の)為なのだが、詩人は「知らなかった」と言う(5節)。新共同訳では「思いがけない言葉を聞いた」となっている。その言葉とは、6~10節の「出エジプトについての主の言葉」である。つまり、勿論「出エジプト」は知ってる(記念の祭りを守って来た)けど、まだ知らない事があった。真実を悟ってなかったという事だ。
 問題は7節の主の言葉「メリバの水のほとりで、あなたを試した」である。出エジプト17:7では「民が主を試した」事件だとされているのに、主は「逆だ」と詩篇81で言うのである。だから詩人は「知らなかった」と驚いているのだ。
 同じ事件を記している民数記20:12では「モーセは神を信じなかった」と神御自身が言う。それゆえモーセも民も、約束の地に入る事が出来なくなった。モーセは無神論者だったのか。いやそんなはずはない。彼は「岩から水を出す」という神の言葉を信じなかったのだ。岩を2度打ったのが神の機嫌を損ねたとか、ではない。詩篇106:32~33では、原因は「モーセの軽率な言葉」とされている。どこにそんな言葉があったか。民数記20:10だ。意訳すれば「岩から水なんか出せるか!」である。それを指摘して「モーセは私を信じなかった」と神は言うのである。神を聖なる者としなかったという事だ。そう、約束の地に入る為には、神を聖なる者とする信仰が必要なのである。民がその信仰を持っているかどうかを神が試した、それがメリバでの事件なのだ。試された結果、民は約束の地に入れなくなった。信仰が無かったのである。それが「出エジプト」の真実であり、それを聞いた詩人は驚いたのである。神を聖とする信仰が無いなら、イスラエルの特権(選びとか、祭り…)など無意味だ。やれ水だ、肉だ、と神に求めるばかりで、「神を」求めていないなら神に喜ばれる事は出来ない(ヘブル11:6)。その信仰を試される場所、それが荒野(約束の地に入るまでの私達の地上での旅路)だ。一旦救われたらあとはもう大丈夫…ではない。約束の地に入るまで、神への純粋な信仰を保ち続けよう。

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