預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

苦い胆汁(使徒8:9~13)

8:9 ところが、この町にシモンという人がいた。彼は以前からこの町で魔術を行なって、サマリヤの人々を驚かし、自分は偉大な者だと話していた。
8:10 小さな者から大きな者に至るまで、あらゆる人々が彼に関心を抱き、「この人こそ、大能と呼ばれる、神の力だ。」と言っていた。
8:11 人々が彼に関心を抱いたのは、長い間、その魔術に驚かされていたからである。
8:12 しかし、ピリポが神の国とイエス・キリストの御名について宣べるのを信じた彼らは、男も女もバプテスマを受けた。
8:13 シモン自身も信じて、バプテスマを受け、いつもピリポについていた。そして、しるしとすばらしい奇蹟が行なわれるのを見て、驚いていた。



 彼こそ神か、と思われていた魔術師シモンがキリストを信じ洗礼を受けた。現代なら、「大きな証」「主の栄光」として、さぞかし売れっ子になっただろう。
 しかしペテロは彼に「滅びてしまえ」とまで言う(20節)。理由は、シモンが神の賜物をカネで買おうとしたからだ


 確かに、それは罪だろう。


 しかしシモンは、仮にも洗礼を受けたクリスチャンではないか。クリスチャンでも罪を犯したら地獄なのか。それとも、シモンは偽クリスチャンだったのか。


 ペテロは続けて言う。『私にはよくわかっています』と。曰く、シモンはまだ『苦い胆汁と不義のきずなの中にいる』のだと。これは英語の聖書(NKJ)から直訳すれば、「苦みに毒されて不正に縛られている」であり、ギリシャ語から意訳すれば、「悪意のある気質から抜け出ていない」となる。要するに、まだ新しくされていない、魔術師の頃の気質のままだ、ということである。


 残念ながら、そういうことは起こりうる。何故なら、聖書が教えるのは、「キリストを信じるなら」ではなく、『キリストの内にあるなら、その人は……』だからだ。
 勿論、キリストを信じるだけでも神の子とされる。その意味では新しくなる。しかし、それで「全てが」ではない。あくまでも、キリストの内にあるなら』、その人は誰でも全てが新しくなる、と聖書は言うのである


 キリストの内にある、とは、キリストの言葉から離れないで、御言葉の教えの中に生きる(神の国の中に生きる)ことである。 そこへ、この世の生き方(価値観、方法論等)を持ちこんではならない。
 ゆえに、アダムが罪を犯した時、神は言われた。『あなたはどこにいるのか』と。その時点ではアダムはまだ、エデンの園(言わば、神の国)の中にいる。だが、同時に彼自身は、神の言葉に背く世界にいたのだ。


 私達は、いつも、「今、自分は、どこにいるのかどの世界に生きているのか)」を意識する必要がある。神の国の考え方(価値観)によって生きているかどうかだ。


 私達は、ただキリストを信じるだけでなく、キリストの中(御言葉の教えの中)に生きよう。そして、全てを新しくされ、自由にされよう。

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