主は「イスラエルを贖い出される」(8節)。 そう、確かに。但し、それは肉のイスラエル人の事ではない。バプテスマのヨハネは言った。神は、この石ころからでもイスラエルを起こす事が出来ると。信仰によって起こされた真のイスラエルこそが救われるのである。 その点、イスラエル人は不信仰ですぐ偶像に走った... 続きをみる
詩篇のブログ記事
詩篇(ムラゴンブログ全体)-
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「さあ、言え」と、124篇と同じパターンで始まる、神の守り(たとえ敵の中にあっても神が助けてくれるという事)についての詩である。 確かにイスラエルは、エジプトの奴隷から救い出され、バビロン捕囚からも解放された。それゆえ「神は必ずあなたを守る、それが信仰だ」と言われる。では何故、殉教したクリスチ... 続きをみる
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「祝福」それを要らないと言う人はいないだろう。むしろ、何にも増して求めていると言えるかもしれない。そして聖書は言う。主を恐れる人は祝福を受ける(4節)と。 ただし、それは主を恐れた結果として付いて来るものであって、祝福は決して目的であってはならない。所が、ともすれば祝福が目的化されて、信仰はそ... 続きをみる
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都上りの歌。ソロモンによる 127:1 主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。 2 あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。... 続きをみる
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126:1 主がシオンの捕われ人を帰されたとき、私たちは夢を見ている者のようであった。 126:2 そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。そのとき、国々の間で、人々は言った。「主は彼らのために大いなることをなされた。」 126:3 主は私たちのために大いなること... 続きをみる
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エルサレムは山々に取り囲まれた地形ゆえに難攻不落な町であった。それと同じように神は御民を守るという(1~2節)。すると、信仰者は風邪もひかず、事故にも遭わないと? いや、この世にあっては患難がある。それは認めなければならない。問題は、何から守るのかだ。 根本的に、聖書が教えるのは、天国・救いへ... 続きをみる
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この世には2種類の人間がいる。霊的に、神の側に居る人と、そうでない人だ。もし、神に敵対する側に居たら滅びる、というのが2~5節である。だから、もしも神が味方でなかったら、と想像してごらん(1節)と言うのである。神だけは敵に回すべきではない。 ただ、神が味方とはどういうことか、だ。神の側に居るの... 続きをみる
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神の憐み・助けを求める詩人は、嘲りと蔑みでもう一杯だ(4節)と言う。決して命を狙われているわけではないのだが、詩人は追い詰められている。誰にか。安逸を貪る者(新共同訳:平然と生きる者)達、すなわち、神を知っていながら神に逆らって平然と生きる人達にだ。 律法に従うなら、彼らは「死刑」となる(例:... 続きをみる
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「さあ、主の家(エルサレム)に行こう」と人々が言うのを聞いて詩人は喜んだ。何故か。それは、壊れていたエルサレムの町が復興したということだからだ。そう、これはネヘミヤの時代の詩だと言われている。「そうか、ついに、やっと再建したのか」と思って詩人は喜んだのである。それが、この詩を理解するための土台だ... 続きをみる
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とにかく「神はあなたを守る」ということだ。 が、そう聞くと「そうか、病気にはならない、事故にも遭わない、貧乏にもならないのだ」と信じたがる人が多いだろう。しかし主が言われた通り「この世にあっては患難がある」のだ。それを受け入れなければ、多くの人が殉教したことの説明がつかない。まさか、その時は神... 続きをみる
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都上りの歌である。祭司が神と人との仲介をしなければならない時代において、エルサレムで生贄を捧げ正式な礼拝を捧げることは必須なのだが、特にこの時、詩人は敵の偽り・欺きに囲まれていたがゆえ、余計に神を求めたのである。 敵とは、詩人が平和を語ると闘いを望む、そんな平和を憎む者達・真の神を受け入れない... 続きをみる
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詩人の心からの叫びである「御言葉の通りに悟りを得る」ことと、「御言葉の通りに救われる」という切なる願い、両者はほぼ同義と言える。そして、それは119篇の結論であり、聖書の目的である。この「目的」は決して見失ってはいけない。見失ったら、何の為の信仰か分からなくなる。溢れる感謝、賛美の源泉は救いの喜... 続きをみる
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「偽りと惑わしで、永遠の命を見失わせようとする敵がいる。だから、神の定めの通りに信仰によって救って下さい」という154~156節は既出だが、大事なことなので繰り返されている。 さて、敵は「君主ら」(新共同訳では「地位のある人々」)だ。宗教指導者達がイエスを迫害したのと同じ構図である。しかし、神... 続きをみる
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主イエスは、朝早くまだ暗い内に起きて祈ったと福音書に記されている。詩人も「夜明け前に起きて叫び求め」る。しかし、これは決して「早天祈祷会」のお勧めではない。詩人は、そうせざるを得ない状況にある(ゆえに必死に神に訴えている)のであって、それは62節にもあったように、夜も眠れない程の苦しみなのであり... 続きをみる
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「涙が川のように流れます」(136節)とあるが、そんなに出るわけがない。当然ながら「川のように」は詩的な表現であって事実ではない。いくら聖書とは言え、何でもかんでも「文字通り」に信じるのではなく「聖書は何を言わんとしているか」を読み取るべきなのである。 とにかく詩人は、御言葉を非常に愛している... 続きをみる
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御言葉の戸が開くと、光が差し込み、悟りが与えられる。誰にか。「わきまえのない者」にだ(130節)。それは原語では「何でも受け入れてしまう単純な者」のことなのだそうだ。 その点、残念ながらキリスト教会は「何でも」受け入れて来た。例えば心理学。それ自体悪いものではない。が、キリスト教に組み込む必要... 続きをみる
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「今こそ主が事をなさる時です」(126節)と詩人は言う。「事」とは? 裁きだろうか。いや「裁いて下さい」とは言っていない。むしろ「それゆえ…あなたの仰せを愛します」(127節)という方向に詩は展開する。しかし同時に詩人は、自らが「死にそうだ」と訴えてもいる(123節)。だからこそ「主よ、今です!... 続きをみる
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詩人は神を恐れ、神の掟から迷い出る者への裁きを恐れるがゆえ、自らがそうならないように「支え、生かして下さい」と願う。何故なら、詩人を悪に染めようとする敵(二心の者共)がいるからだ。 ヤコブは「二心の人達。心を清くしなさい」と言う。心の中に神への信頼と疑いがある(混じり気がある)から、疑いを取り... 続きをみる
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どんなにか、分からないほど御教えを愛している(97節)と詩人は言う。自信満々で自惚れが強いと感じるかもしれないが、これは「愛」とは何か、という問題だ。それは「好き」ではない。神を愛するとは、神の命令を守ることだとヨハネは言う。 では神の命令は何か。それは「心を尽くして…神を愛せよ」が一番大切な... 続きをみる
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天地創造が完成したのちは、全てのものが神の定めに従って自ら動いている。人も、遺伝子に書き込まれた情報に従って生まれるようになった。それを89~90節は支持する。この教えを喜びとするなら、悩みは消え、生きる力となる(92~93節)。 しかし、その「主の御言葉によって生きる人」を滅ぼそうとする敵が... 続きをみる
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詩人は「絶え入るばかり」だ(新共同訳では「衰えた」)と言う。それも「救いを慕って」である。つまり、死にそうな状態でまだ救いが来ていないということだ。82節でも、御言葉の慰めはいつになったら来るのか、と訴える。詩人は余命幾ばくも無い老人なのだろうか。あるいは、例えばパウロについての預言的な個所と取... 続きをみる
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詩人は、一時は信仰が「的外れに」なってしまっていた。それが「罪」である。つまり、「罪を犯すな」と言うのは「的を外すな」ということなのであって「嘘とか盗みとかの細々とした悪事を避けて聖い人になれ」ということではないのだ。それらは的外れの結果起きることに過ぎない。本質ではないのである。 アダムとエ... 続きをみる
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人は神に造られた。これはクリスチャンの信仰の大前提だと言える。加えて、「神は一人一人を個性的な最高の作品として丁寧に造って下さった」とも言われるが、果たしてそうか。もしそうなら、ある人は背が高く美しく造られるが何故、別の人はそうではないのか。不公平感は否めない。 勿論、最初の人は、神が直々に造... 続きをみる
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詩人は「神の戒めを学んで守ること、それが幸いだ」と言う。そればかりか、苦しみに会ったことも幸いだ、と。 しかし、だからと言って「そうだ、苦しみも幸いだ」「苦しみも神の賜物だ」「苦しみを受け入れ、感謝し、喜ぼう」と言うのが正しいのだろうか。自分が、そう思うのはいいが、それを他人に押し付けるのはい... 続きをみる
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神の言葉に従います、という決意の言葉だと言える。ただ、疑問は62節だ。寝る前に一日の感謝を…と言うのなら分かるが、何故「真夜中に起きて感謝する」と言うのか。それが祝福の秘訣だと教えているのだろうか。私達も、同じように夜中に起きるべきなのだろうか。 状況を可視化しよう。詩人は、憐れみを求めている... 続きをみる
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「神のとこしえの定め」を思い出して詩人は「慰めを得た」と言う。それ程に素晴らしい定めだということは、逆に言えば、それが無いと哀しみのどん底に沈んでしまうかもしれないということでもある。 そう、「神のとこしえの定め」とは、人間にとっての最大の哀しみである「死」に対する慰めだ。つまり、人は死ぬけど... 続きをみる
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神の恵みと救いが私に実現しますように、と詩人は言う。それは、どの様にもたらされるのか。「御言葉の通りに」だ。つまり、行いではなく信仰によって救いはもたらされるということであり、それを約束している御言葉を、詩人は愛するのである。その様にして、信仰による救いを確信することによって敵対する者の「そしり... 続きをみる
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魂がちりに打ち伏すほど絶望的な状況にあって詩人は「御言葉によって命を得させて(新共同訳)」と言う。口語訳では「生き返らせて」だ。たとえ死んでも生き返るということだろうか。いや、絶望的な状況にあるのは、肉の命ではなく、魂だ。ちりに打ち伏して(死にかけて)いる魂も、御言葉によって命を得ることが出来る... 続きをみる
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「神の言葉を愛する」というテーマに貫かれた詩である。だからこその祈り、それが17節『あなたのしもべを豊かにあしらい、私を生かし、私があなたのことばを守るようにしてください』だ。それは、決して豊かさを求めているのではなく「御言葉を守れるようにタップリと取り扱って欲しい」という願いだ。それ(罪を犯さ... 続きをみる
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22文字あるヘブル語のアルファベット、それぞれを頭文字として各8節ずつ、計176節で構成されている詩であり、詩篇中、最長の詩である。ゆえに解説には骨が折れるが、全体としては「神の言葉を愛する」というテーマが貫かれた詩である。 1~2節は、詩篇1篇と似て「主の教えを喜びとする」人々は幸いだと言う... 続きをみる
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「エジプトのハレルヤ詩篇」の最後の詩だ。バビロン捕囚後の神殿再建にまつわる詩とされているが、恣意的・作為的な読み方は避け、御言葉の真理によって生きる力を受け取って行きたい。 前提として、バビロン捕囚は、イスラエルの不信仰に対する神の裁きである。しかし、滅ぼされはしなかった(18節)。懲らしめら... 続きをみる
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キリストの降誕は、決して煌びやかなものではなく、むしろ厳しい。それは馬小屋で産まれた主御自身にとってだけでなく、新生児を、産湯さえ無いような環境で飼い葉桶に寝かせるしかなかったヨセフとマリヤにとってもである。 普通に考えれば、修羅場だ。そんなキリストの誕生を喜べるのは、信仰があればこそなのであ... 続きをみる
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ギクシャクした詩だと感じる。例えば1節。主を愛する理由は「主が願いを聞いて下さるから」だと。それなら、祈りが聞かれなかったら即刻離婚、偶像に行くということなのか。 更に10~11節。「私は信じた」と。その直後に慌てて「全ての人は偽りを言う者だ」と言った。すると「信じた」は虚言で、それを取り消し... 続きをみる
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(詩篇本文は、ご自分の聖書にてご確認ください) 一見、信仰的な詩のように思える。が、何か違和感がある。 まず1節は、イスラエルの謙遜から出た言葉なのではなく、詩人による(イスラエルが律法主義をやめますようにという)執り成しの祈りだ。 律法主義は、自分の力で自分を救おうとする(その点で偶像崇拝... 続きをみる
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出エジプトという「救いの青写真」(それは、第二の出エジプトである「バビロン捕囚からの解放」を経て、第三の出エジプト「キリストによる救い」へと昇華する)を通して語られる詩なのであり、言わばクリスチャンにとっての「ハレルヤ詩篇」である。 事実、クリスチャンは、出エジプトと同じように、この世から脱出... 続きをみる
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主をほめよ(1~4節)である。しかし「とこしえまで」と言うのはいいが、何故「今より」(2節)なのか。「とこしえからとこしえまで」主はほめられるべきではないのだろうか。 「今」…それがいつにせよ「今から」ということは、そこに何かの境目がある。何かが大きく変わった(以前とは違う)区切りということだ... 続きをみる
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主を恐れる人の幸いを覚えさせるためのアルファベット詩であるが、問題は「その人の子孫は地上で力ある者となる」だ。普通は「主を恐れるその人」が幸いになるはずだが、何故「その人の子孫は」なのか。 勿論、子供が祝福されることは親にとっては喜びだ。信仰の継承ということも期待出来る。しかし、祭司エリの二人... 続きをみる
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111:1 ハレルヤ。私は心を尽くして主に感謝しよう。直ぐな人のつどいと集会において。 111:2 主のみわざは偉大で、みわざを喜ぶすべての人々に尋ね求められる。 111:3 そのみわざは尊厳と威光。その義は永遠に堅く立つ。 111:4 主は、その奇しいわざを記念とされた。主は情け深く、あわれみ深... 続きをみる
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ソロモンが王位に就く時に父ダビデが歌ったとされている。つまり、息子を王国の君主(私の主)と認めた上で、その君主に、主なる神が仰せられるということだ。要は、息子を(あなたの王国は安泰だと)祝福しているのである。 そこまでなら、単なる親バカと言えなくもない。しかし、この1節は、新約で何度も語られて... 続きをみる
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新約では「迫害する者を祝福するべきであって、呪ってはいけない」(ローマ12:14)と教えられているのだが、この詩は強烈な「敵に対する呪いの言葉」が大半(6~20節)を占めている。それは果たして、許されるのだろうか。余程の敵なら仕方ないということなのだろうか。 いや、呪いは決して、良いものではな... 続きをみる
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108は、人間の煩悩の数とも言われるが、この108篇には悩まされる。と言うのは、1~5節は、詩篇57:7~11と同じ。残りの6~13節は、60:5~12と同じなのである。思い起こせば、53篇も14篇とほぼ同じだったが、それでも若干の違いがあった。しかし今回は、それさえ無い。全く、と言っていいほど... 続きをみる
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42:1 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。 42:2 私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。 42:3 私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。人が一日中「おまえの神はどこにいるのか。」と私に言う間... 続きをみる
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105篇と同じ構成(まず賛美、次に歴史、そして結論)だが、違いは歴史の部分だ。105篇は「イスラエルになされた神の御業」の歴史だが、106篇は「イスラエルの不従順と忘恩」の歴史が記されている。それが13~33節。エジプトから救い出された直後に神に逆らい、神を試み、偶像を拝んだ。そんなことの繰り返... 続きをみる
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あえて一か所、15節「わたしの油そそがれた者たちに触れるな。わたしの預言者たちに危害を加えるな。」には注意が必要だ。自己正当化するのに持って来いの(カルト牧師が大好きな)御言葉である。しかしこれは創世記26章でイサクが妻を妹と偽ったことによって被害を被りそうになったアビメレク王が、民に「この二人... 続きをみる
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23節まで、天地創造の御業を、詩として自由な表現で語られている。その「御業はなんと多いことでしょう」(24節)と言う通り、まさに計り知れない、それが天地創造だ。ゆえに、その記述を文字通りに鵜呑みにする必要は無い。例えば「焼き尽くす火をご自分の召使とされます」(4節)は、天使のことであるとヘブル1... 続きをみる
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23節まで、天地創造の御業を、詩として自由な表現で語られている。その「御業はなんと多いことでしょう」(24節)と言う通り、まさに計り知れない、それが天地創造だ。ゆえに、その記述を文字通りに鵜呑みにする必要は無い。例えば「焼き尽くす火をご自分の召使とされます」(4節)は、天使のことであるとヘブル1... 続きをみる
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103:14 主は、私たちの成り立ちを知り、私たちがちりにすぎないことを心に留めておられる。 103:15 人の日は、草のよう。野の花のように咲く。 103:16 風がそこを過ぎると、それは、もはやない。その場所すら、それを、知らない。 103:17 しかし、主の恵みは、とこしえから、とこしえまで... 続きをみる
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103:3 主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、 103:4 あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、 103:5 あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。 103:6 主はすべてしいたげられている人々のた... 続きをみる
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103:1 わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。 103:2 わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。 103:3 主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、 103:4 あなたのいのちを... 続きをみる
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バビロン捕囚の時の、絶望的な(いつまで祈っても何も変わらない)状態、その嘆きの詩的表現、それが1~11節。しかし、それでも神が神であることは間違いない。神が神でなくなることはないのだ(12節)。 「だから信じて祈れ。いつか必ず答えられる」と、教会では昔から教えられてきた。確かに13~17節でも... 続きをみる
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101:1 私は、恵みとさばきを歌いましょう。主よ。あなたに、ほめ歌を歌いましょう。 101:2 私は、全き道に心を留めます。いつ、あなたは私のところに来てくださいますか。私は、正しい心で、自分の家の中を歩みます。 101:3 私の目の前に卑しいことを置きません。私は曲がったわざを憎みます。それは... 続きをみる
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100:1 全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。 100:2 喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。 100:3 知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。 100:4 感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、はいれ。主に感謝し、御名... 続きをみる
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99:1 主は王である。国々の民は恐れおののけ。主は、ケルビムの上の御座に着いておられる。地よ、震えよ。 99:2 主はシオンにおいて、大いなる方。主はすべての国々の民の上に高くいます。 99:3 国々の民よ。大いなる、おそれおおい御名をほめたたえよ。主は聖である。 99:4 王の力は、さばきを愛... 続きをみる
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これも、バビロン捕囚からの解放の喜びの詩であり、キリストを信じる者が天国に入ることを教えるモデルである。 まず、神の救いを喜び叫べ(4~8節)と言うが、その中の4~6節は分かりやすい。普通に、教会でも毎週そうしている。賛美だ。ただ、幸いなのは「転げ回れ」とか「踊り狂え」などとは書かれていないこ... 続きをみる
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喜べ、という聖書の教え、それは、地獄に落ちないで済むこと(救い)を喜べということである。その救いを教えるモデル、それが出エジプトであり、バビロン捕囚からの解放だ。それらは、信仰者が、この世での罪と死の奴隷から解放される(約束の地・天国に入る)という新約聖書の教えのシルエットであり、それが旧約聖書... 続きをみる
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嘆き・呻きではない、賛美の詩である。そもそもながら詩篇は賛美歌集なのだ。 そこで改めて、賛美とは? まず「新しい歌」である。が、必ずしも新曲である必要はない。以前は知らなかった救いの喜びと感謝の歌、それが救われて初めて知る「新しい歌」だ。それを「主に歌え」とある通り、賛美は神に向かって歌って... 続きをみる
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バビロン捕囚から解放され、「さあ神を崇めよう」との招きから始まる。 かつてイスラエルは既に一度、大きな神の救い(出エジプト)を体験していた。が、そのあと神を崇めず偶像を作って「我らの神よ」と拝んだ。恩知らずもいいところだ。そんなイスラエルを神は見放すかと思えば、そうではなかった。苦難の時に、ま... 続きをみる
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御国への道を阻む、その「悪を行う者」から誰が助けてくれるだろうかと詩人は言う(16節)が、どうやら誰もいないようだ。それで「もしも主が私の助けでなかったなら」(17節)と、主以外に助けは無いことを詩人は思う。ただし、これは「御国への道が阻まれる場合」のことであって、他の場合になら、人も助けになっ... 続きをみる
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神の民も弱者も苦しめ殺す、そんな悪者への報復を詩人は神に願うが、その悪者は異教徒ではない。真の神を知っていながら神を侮る者だ(7節)。そこで詩人は怒りに満ちて言う(8節)。その言葉にある通り、悪者とは『民の中の間抜け者共』、すなわち、イスラエルの宗教指導者達なのである。主も彼らの事を「白く塗った... 続きをみる
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主は王・支配者だ、力があるのだと言う。勿論だが、だからどうしろと言うのかが不明だ。何より、1節の4~5行目は新約聖書の教え(この世は崩れ去る)と一致しない。聖書にも誤りはあるということか。 いや、捉え所は4節(大自然の脅威を語る所)だ。つまり、人の力の及ばない存在・力というものを人は感じ、畏れ... 続きをみる
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主に感謝するのは「良い事です」と1節にある。だから、出来るだけ感謝した方が良いという様な緩やかなお勧めではない。新共同訳では、主に感謝する事は「いかに楽しい事でしょう」である。 どんなに良い事(例えば、運動)も、辛いと感じるなら長続きはしない。しかし、主に感謝を捧げる事は楽しいのである。それも... 続きをみる
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91って、とんでもない。伊代はまだ19……? あれ? 16だったか。(センチメンタルジャーニー) 年齢の話ではなくって、 すごく難しい聖書個所に取り組んでるって話なのだが、 これがなかなか難しい。 いろんな翻訳の聖書、何冊もの注解書、聖霊による悟り、などに頼って読み解こうとするが、まだ謎が……。 ... 続きをみる
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このブログを始めて7ヶ月しかならないけど、今のうちにタイトルを変えた方がいいのかもと思ったり。 「預言書としての詩篇」 なんとか持たそうと思って、それ以外のことも書いてはいるが、そもそも筆不精なので……(今、すごく頑張ってると思う) と言うか、もはや何のブログかわかんなくなってる感が。 例えば、↓... 続きをみる
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主は、避け処、砦、あなたを救って下さるお方だと言う。その具体的な内容が4節以降であるが、これが、とてつもない。矢が飛んで来ても恐れないとか、病原菌をも寄せ付けない、みたいなことが言われている。私達は確かに、主を避け処としているが、それでも風邪をひくことくらいはあるし、矢が飛んで来たら平気ではいら... 続きをみる
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「人をちりに帰らせ」た神が「人の子らよ、帰れ」と言う。ちりになれ、滅びよ、という意味ではない。罪ゆえに死ぬ(ちりになる・土に戻る)者となった人間だから、神に帰れ(悔い改めよ)という事だ。永遠なる神こそ、帰るべき住まい(1節)なのである。その「帰る家」を持たないなら、人生は苦しく辛いものになってし... 続きをみる
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「神は偉大」と誉め、「ダビデは凄い、誰も勝てない、神のダビデへの契約は変わらない」と称えるのが37節までの前半部分だが、後半(38節から)でいきなり「しかし」と雲行きが怪しくなる。油注がれていた(20節)はずのダビデを神は捨てたと言うのである。それが45節まで続く。「破らない」(34節)と約束さ... 続きをみる
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全体を通して、非常に暗く、沈痛な詩である。その様な嘆きの詩はダビデにも多々あった。だがダビデの場合、最後には信仰による希望で締めるのだが、この詩は最後まで絶望に満ちている。コラコラ、それでいいのか…と言いたくもなろう。 詩人は、自らを死人同然と言う。そして「神の憤りがとどまっている」(7節)と... 続きをみる
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神の都シオン(エルサレム)について『素晴らしい事が語られている』と言う。それは、イスラエルを苦しめていた敵国民が「エルサレムで生まれたものとみなされる」という事だ。一聴すると、あたかも、シオンこそ世界の中心(地球政府の首都)として神が選んだかのようだ。これを鵜呑みにすると「ユダヤ化を拒む者は滅ぼ... 続きをみる
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嘆き祈るダビデ。一日中、何日も祈り続けるが神は答えてくれない。焦れる。が、同時に「必ず答えてくれる」という確信もあると記すダビデ(7節)。どっちなのか。8~10節を見ると、決して神を疑ってはいない。神の偉大さの前にへりくだって崇めている。それゆえに主の道を歩みます(11節)と言う。なのに嘆いてい... 続きをみる
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イスラエルにとっての大きな嘆きと悲しみであったバビロン捕囚から解放されて、詩人は喜びつつも、何故か「まだ救って下さらないのですか」と嘆き祈る。イスラエルは、赦され救われたのではないのか。神は、赦した振りをしただけなのか。もっと良い人間にならなければ救われないのか。いや、確かに神はイスラエルを赦し... 続きをみる
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心が神に向いている(心の中にいつも神への思いがある)人は幸いだと言う(5節)。その人は、たとえ涙の谷を過ぎる時も、そこを泉の湧く所とする(6節)。これは詩篇23:4~5に通じる。その結論は「いつまでも主の家に住まおう」であるし、84篇も「主の家に住む幸い」を歌う(1~4節)のである。「主の家に住... 続きをみる
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イスラエルを敵が包囲している、そんな状況で神は沈黙を続けている。何故、神は動いて下さらないのか。この問題は、遠藤周作の小説よりはるか以前、旧約時代の昔から存在していたのだ。 歴史の事実として神は、いつも、毎回、全ての事に一つ一つ、細かく、介入する訳ではない。ステパノをはじめ、使徒達、多くの弟子... 続きをみる
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1節の「神は」の次に出て来る「神」は「エール」(力ある者・権力者)という単語であり、「神々」は脚注の通り「裁く者」の事である。つまり、神はイスラエルの権力者(宗教指導者)達の不正を裁くという事だ。彼らは本来なら、弱い者・貧しい者を助けるべきなのに、「悪者共の顔を立てる」(2節)のはどうした事かと... 続きをみる
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イスラエルの祭り(1~3節)は、神が定めた(4節)。それは出エジプト(神の救いの御業)の証しの為であり、それを忘れないようにする(記念の)為なのだが、詩人は「知らなかった」と言う(5節)。新共同訳では「思いがけない言葉を聞いた」となっている。その言葉とは、6~10節の「出エジプトについての主の言... 続きをみる
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例によって、イスラエルは苦難の中にあり、詩人は「主よ、いつまで助けてくれないのですか」と訴える。そして14節から「主よ、どうか赦して」と求めるのだが、ポイントは17節「神の右の手の人」とは誰かだ。新共同訳では「神の右に立つ人」だが、その人は「神の為に強くされた人」でもある。その人に神の御手、すな... 続きをみる
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「主よ、いつまでですか」という訴えは、私達の中にも時として起きうる。例えば、家族の救いの時、問題の解決の時が来るのはいつなのか……というように。そしてそれは神に期待するが故の訴えだ。だが詩人は「神がいつまでも妬んでいる」と神を責めるかのように言う。 確かに普通「妬み」は、妬む側の一方的な問題だ... 続きをみる
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「たとえ話、昔からの謎を語ろう」(2節)と、詩人の意図は明瞭だ。そして、それを先祖代々語り告げるようにと神が定めたというのである(3~5節)。その目的は「のちの世代の者が神を恐れるようになる為」である(6~8節)。結論は明らかだ。「神を恐れよ」である。 尤もである。「それが人間にとって全てであ... 続きをみる
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心に響く、それ故に愛される、それが詩篇だ。が、この1~3節はどうだろう。「苦難の日に神に祈りの手を上げた」……それはいい。しかし「私の魂は慰めを拒んだ」とはどういう事か。神が拒んだならまだしも(例えば、パウロの求める癒しに神は応えなかった。それは神の主権だから仕方ないが)、自分で求めておいて自分... 続きをみる
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神の住まいであるエルサレムにおいて神は圧倒的に(勇士達が誰も手も足も出ない程に)勝利したというのだが、その勝利の詩が書かれた後、エルサレムはバビロンに滅ぼされてしまう。あの「イスラエルを敵から守る」という約束はどうなったのか。 まず、「肉のイスラエルがそのままイスラエルなのではない」(ローマ9... 続きをみる
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聖所(エルサレム)が踏みにじられているから助けて、と訴えている。それは歴史的には、BC586年のバビロンによるエルサレム破壊~バビロン捕囚の事だ。その後、帰還した人々の中にアサフ族がいて、賛美を導く務めを担った。つまり、この詩は、既にバビロンから解放された時点で書かれているという事だ。もう済んだ... 続きをみる
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神はイスラエル(本当の意味での…、神の約束を信じて生まれた神の子)に対して慈しみ深い。しかし、と詩人は、それに反するかのように自らの歩みは「すべるばかりだった」と言う。その理由は、悪者が栄えるのを見て妬んだからだと。神に背く者が(神に従わないのに)何故栄えるのか。神のしもべが何故苦しみに遭うのか... 続きをみる
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「神は慈しみ深い」という宣言である。ただし、イスラエルには、である。同時に、心の清い人に。それはつまり、ヤコブ(神を求める一族=イスラエル)であると詩篇24は言う。では神はイスラエル民族以外には目もくれず、慈しみも示さないのか。それ以前にイスラエル人は皆、心が清いのか。いや、イスラエルという国に... 続きをみる
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悪者(4節)とは誰か。この詩を書いた時、詩人(ダビデ?)はかなり高齢であったと思われるが、問題は、老いても尚まだ信仰の戦いの中にある(悪者に攻撃されている)という事だ。9~13節を見ると、あたかも惨めな晩年を送っているかのようにも思える。しかし、決して神に失望してはいない。むしろ後世に伝えたいと... 続きをみる
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40篇13~17節と同じ詩である。まさか、既に書いた事を忘れたわけではあるまい。では何の為に同じ事を2回も書いたのか。それは表題にある通り「記念の為に」だ。そこが40篇との違いである。 詩篇には、アルファベット詩という形式のものがあるが、それは聞く者(読む者)に何かを覚えさせる為の形である。し... 続きをみる
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この詩からの引用が新約聖書には多くある。22篇同様のメシア詩篇だと言えるかもしれない。つまり主は、ここに示された通りの苦しみを受けられたという事だ。それも、故もなく(4節)、不当に。その事を、まず「彼らは理由無しに私を憎んだ」(ヨハネ15:25)と引用しているのだが、本当に理由が無い訳ではない。... 続きをみる
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この詩の全体像を眺めたい。31節まではイスラエルの歴史(出エジプト、その後の荒野での旅路~カナン征服~シオンが神の家として選ばれる~イスラエルの周りの国々を打ち負かす~ダビデの勝利の凱旋)である。そして、それは実は、単なる歴史ではなく「救いのプロセスの青写真」であり、それを雛型として(同じ様なプ... 続きをみる
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祝福を求める詩、と言うより、祈りである。しかし僅か7節の短い詩の中で3度「祝福して下さい」と願うのは、祈りの本質(願い事ではなく賛美)から外れている(もしかしたら「御利益信仰だ」)と言われるかもしれない。しかし、それが神のメッセージのはずはない。 そもそも信仰とは、自分が信じたい事を勝手に信じ... 続きをみる
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