預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇119 その⑤(49~56節)

 「神のとこしえの定め」を思い出して詩人は「慰めを得た」と言う。それ程に素晴らしい定めだということは、逆に言えば、それが無いと哀しみのどん底に沈んでしまうかもしれないということでもある。
 そう、「神のとこしえの定め」とは、人間にとっての最大の哀しみである「死」に対する慰めだ。つまり、人は死ぬけど、必ずしもそれで終わりではない、死んでも天国へ行く道がある、ということであり、その神の定めを思い出すなら、死という最大の哀しみの時にも慰めを得ることが出来るということである。


 神は人に、その慰めを約束し、待ち望ませた(49~50節)。それが、もっとも古くは創世記3:15から始まる「救い主の到来と勝利の預言」すなわち、十字架と復活の予表だ。
 そのキリストを信じるなら、天国で新しい命を生きるようになる。それはエペソ1:4によれば「とこしえからの定め」なのである。それを忘れたなら希望は無い。だが思い出すなら、死の時にも慰められる。


 だから忘れてはいけない。まして捨てるなど、それは悪者だ(53節)。何しろ、捨てるということは、一度は手にした救いをみすみす無駄にすることであるのだから、もったいない限りである。
 何故そんな事が起きるのだろう。おそらくは偽りの教えの故だ。天国に入りたいと願う人を入らせない、それが偽りの教えであり、主も忌み嫌われた。


 神が定めた掟(天国への道)を知るなら、その掟は人生の楽しみ・歌となる(54節)。そして、その様な楽しみがあってこそ、辛いことも耐えることが出来るのであり、人生には、神にあっての希望がどうしても必要なのである。


 その希望(天国の確信)こそ私のものだと詩人は言う(56節)。キリストを信じることによって、死んでも生きる(新しい体への復活)が自分のものとなるのである。


 戒め(御教え)を「守る」ということは、律法主義のことではない。それは、神の定め(信じる者はキリストと同じように復活するという約束)を「捨てない」ということ、そういう文脈である(53節参照)。
 この神のとこしえからの定めを愛し、堅く守ろう。

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