預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇128(都上りの歌⑨)

 「祝福」それを要らないと言う人はいないだろう。むしろ、何にも増して求めていると言えるかもしれない。そして聖書は言う。主を恐れる人は祝福を受ける(4節)と。
 ただし、それは主を恐れた結果として付いて来るものであって、祝福は決して目的であってはならない。所が、ともすれば祝福が目的化されて、信仰はその為の道具となってしまう。それは初代教会の時からだ。敬虔を利得の手段と考えている人々がいる、とパウロは指摘している(Ⅰテモテ6:5)。


 神から恵みを受ける事も祝福であろうが、基本的には「幸福である事を祝う」それが祝福だ。では、何が幸福か。「このように」と4節が指すのは2~3節である。
 まず、妻が家の奥にいる。子供も共にだ。まあある意味、円満な家庭と言えるかもしれない。何より幸福なのは「自分の手の勤労の実を食べるとき」だという2節だが、本来それは、神無しでは虚しい事だと127篇では言われていた。だから1節にある通り、主を恐れ、主の道を歩む者にとっては、幸福だという事だ。


 だからと言って、信仰者が皆、幸福とは限らない。問題は、その人がどんな信仰の道を歩むか、だ。祝福を目的とする信仰の道(敬虔を利得の手段とする道)でもいいのだろうか、という事なのである。


 本当の「主を恐れて歩む、主の道」とは、天国への道であるはずだ。何故なら、その道を歩ませる為に主は私達を招いて下さったのだから。その様な、御心に適う信仰の道を歩むなら、勤労の実も神の賜物であり、家を建てるのも、平和な家庭を築くのも、幸福となるのであって、正しい信仰抜きには、全ては虚しい。死んでお終いという事である。


 だから、その為に「エルサレム(神の国の中心)の繁栄を見よ」(5節)と言う。すなわち「私達の心の中(神の国)中心(魂)を廃れさせてはいけない」という事だ。そして「イスラエルの上に平和があるように」(6節)と。
 それは勿論「真のイスラエルの上に、神との平和があるように」という事だ。天国と現世御利益を引き換えにしては、神との平和は無い。それは魂を悪魔に売り渡す事に等しい。その誘惑は人生という荒野には常にある。主イエスも、その誘惑を受けられた。


 私達は魂を守り抜き、御心に適うように天国への道を歩み続けよう。

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