預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇101(再臨の備え)

101:1 私は、恵みとさばきを歌いましょう。主よ。あなたに、ほめ歌を歌いましょう。
101:2 私は、全き道に心を留めます。いつ、あなたは私のところに来てくださいますか。私は、正しい心で、自分の家の中を歩みます。
101:3 私の目の前に卑しいことを置きません。私は曲がったわざを憎みます。それは私にまといつきません。
101:4 曲がった心は私から離れて行きます。私は悪を知ろうともしません。
101:5 陰で自分の隣人をそしる者を、私は滅ぼします。高ぶる目と誇る心の者に、私は耐えられません。
101:6 私の目は、国の中の真実な人たちに注がれます。彼らが私とともに住むために。全き道を歩む者は、私に仕えます。
101:7 欺く者は、私の家の中には住みえず、偽りを語る者は、私の目の前に堅く立つことができません。
101:8 朝ごとに、私は国の中の悪者をことごとく滅ぼします。それは主の都から、不法を行なう者をことごとく断ち切るためです。



 ダビデの決意表明である。まず自分自身については、神を賛美すると。それも、「恵み」は勿論だが「裁き」をも誉め歌うと言う。何故、裁きを誉めるのか。それは、神の裁きは必ずしも悪ではなく、キリストを信じる者の罪を赦すという恵み(すなわち、福音)でもあるからだ。教会でよく言われる「裁いてはいけません」は誤解である。主がそう言われたのは、うわべの裁きに対してであって、「正しく裁きなさい」(ヨハネ7:24)という意味なのである。だからダビデは「信仰によって義とされる」という神の裁きを誉め歌い、その全き道に心を留めると言う。決して、行いの正しさを追求する道には行かない、という決意だ。そのような決意をもって、主の再臨を待ち望み(2節)、その時が来るまで曲がった業(偽り)を憎み、離れると言う(3~4節)。


 後半(5~8節)は、王国の中で王としての決意、それが「自分の隣人をそしる者を滅ぼします」だ。厳し過ぎはしないか。いきなり滅ぼすより、まずは悔い改めに導くべきではないだろうか。だがダビデは「朝毎に、悪者をことごとく滅ぼす」(8節)と、その手を緩めない。いくら何でも……そう、これは現実のダビデ王国のことではない。ダビデの王国、それは、神の国のシルエットである。ただし、天国でも悪と戦う必要があるわけではない。「神の国はあなた方の中にある」と主は言われた通り、心の中の悪を滅ぼすべきことを言い現わしているのである。その悪とは、欺き、偽り等のことである。そして誇り、高ぶり。「自分の行いは義とされるに相応しい」という誇りだ。それは、神の恵みを否定する高ぶり、悪なのだ。要は、心の中の悪とは律法主義であって、それは「全き救いの道」ではない「福音に反する道」なのである。それとの戦い、それが、再臨に備えてなすべきこと、目標(最大の希望)である救いの完成に至るために必要なことなのだ。


 これが、ダビデの決意表明を通して語られるメッセージだ。特に、世の終わりが現実味をますます帯びてくる今の時代の私達に必要なメッセージである。
 全ては救いの完成のため。再臨(裁き)のときに備えるのは、今だ。いよいよ御言葉に親しみ、御心を悟って、全き道を歩もう。

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