預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

にでなくを(ヘブル11:6)

ヘブル11:6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。



 神に喜ばれる信仰とはどのようなものかを、ここで聖書は教えている。一つには、「神がおられることを信じる」だ。だが、これは信じる以前に、事実である。神がおられることは明白であって、言い逃れの余地はない、とローマ1:20に教えられているし、神の存在など、悪霊共でさえ知っている(ヤコブ2:19)とも聖書は言う。近代科学の基礎を築いた科学者達も、一様に神の存在を信じ、神を知る為に、宇宙を研究した。科学の発展は、神の存在の故なのである。そのように、私達は、「神がおられる」という事実をあらゆる面から確認することが出来るのだ。


 ただ、それでも、その神が、生きて働く神である、ということを信じていない場合がある。それがもし「教会」と名のつく場所においてであればどうだろう。神はそれを喜ばれるだろうか。勿論、否である。


 聖書は何と言っているか。『教会はキリストの体である』『二人、三人が主イエスの名前によって集まる所に、神の臨在がある』だ。すなわち、神に喜ばれる為には、「今も生きて働かれる神がおられる」ということを信じなければならないのである。


 次に、「神を求める者には、報いて下さる」ということを信じなければ喜ばれない。大切なポイントは、神は何に対して報いて下さるのか、ということだ。どんな願いにも報いて下さる、のではなく、「神を求める」という行為に対して、神は報いて下さるのだということを間違えてはならない。


 ところが多くの人が、「神に求めるなら神は報いて下さる」と信じなさい、と言う。つまり「祈れば何でも叶うと信じろ」ということだ。そうでなきゃ神に喜ばれない、と。


 いや、頼むから、しっかり聖書を読んでほしい。


 聖書が言うのは、「神求める」ではなく、「神求める」だ。


 例えば、大富豪である老人と結婚した若い女性が、実は、その老人を愛しているわけではなく、その老人の財産目当てで結婚したのだったなら、その老人はどれほど悲しむだろうか。神様も同じく、「祝福をではなく、私自身を求めてほしい」と願っておられる。


 逆に、財産をではなく、その老人自身を愛し、結婚する女性がいたなら、その老人は、自分の財産を全て彼女に与えるだろう。同じように、私達が神ご自身を愛し、神の栄光と御旨が成ることを求めて行くならば――つまり、神の国と神の義を第一に求めるなら――『全ては与えられる』のである。
 財産目当てに近づいて来る者を、誰も喜びはしない。私達も、神ご自身(神の国と神の義が成ること)を求めよう。

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