預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

そこが、信仰!(マタイ27:50~54)

27:50 そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。
27:51 すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。
27:52 また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。
27:53 そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都にはいって多くの人に現われた。
27:54 百人隊長および彼といっしょにイエスの見張りをしていた人々は、地震やいろいろの出来事を見て、非常な恐れを感じ、「この方はまことに神の子であった。」と言った。



 主が十字架で息を引き取られた時、様々な驚くべきことが起こった。特に『聖徒達の体が生き返った』というのは驚きだ。


 生き返った「聖徒」とは誰か。今なら、クリスチャンのことであるが、その当時においては、いわゆる「旧約時代の信仰者達」ということになる。代表的には、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、ヨシュア、ダビデ……そんな歴代のヒーローが、というわけではないにしても、続々と死人が生き返ったのなら大騒ぎになるはずだ。が、そんな記録はない。彼らは『多くの人に現れた』のに、何故か


 恐らく、人々は、それが生き返った人だとは思わなかったのだろう。「ラザロと金持ちのたとえ」で主が言われた通り、たとえ死人が生き返ったからといって、それで信仰を持つというわけではないのだ。事実、祭司長達も、兵士達から、イエスの復活の報告を受けた。そしてそれを認めた。だからこそ、誤魔化す為にデマを流したのだ。「イエスは復活した」からといって信仰には繋がらなかったのである


 では「聖徒達の生き返り」には何の意味があるのか。死体が生き返ることにどんな必然性があるのかクリスチャンは「生き返り」を求めるべきなのか?


 勿論、神には出来る。だが、必然性が無い何故なら、クリスチャンが死ねば、次は、栄光の体によみがえるからだ。そして、永遠の命を生きる。天に名が記されているのだ。それを何よりも喜べ、と主は言われた。


 永遠の命に入る、それを聖書は「脱出」(使徒2:40)、「贖いの完成」(ローマ8:23)だと言う。それを『うめきながら待ち望んでいる』、それがクリスチャンだ。


 その「待ち望んだもの」が、今まさに手に入るというその時に生き返りを求めるなら、それは「永遠の命より、この世の命だ!」と言うことに等しい


 勿論、生きている限りは、一日でも長く、喜びと楽しみの日々を送りたい。それが「神の賜物」であると伝道者の書に教えられている。しかし「その時」が来たら、それは「完成」の時、「やっと家に帰れる!」という「待ち望んだ」時なのだそう思えるかどうか、そこが信仰である
 聖徒達が生き返った……それは、主が十字架で「罪から来る報酬・死」という問題を解決した、というしるし(永遠の命の象徴)である。

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