預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇56

 ガテの王アキシュ(アビメレク)の前でダビデは、気が狂った振りをしてまで逃れようとした。形振り構っていられない程の危険と恐れがあったのだ。それが詩篇56:1~7に表されている。ただ8節は、よくある嘆き訴えとは違う。神はダビデの逃亡生活を記録しているというのだ。そしてダビデは、その苦しみ(涙)を神の皮袋に蓄えて、と願う。それは、あなたの書にありますよね、と。
 神の書とは、命の書を始めとする数々の書(黙示録20:12)だ。そこには、人の全ての行いが記されていて、その行いに応じて裁かれる(報いが与えられる)。つまり「私の涙を蓄えて」というのは「私の苦しみをきちんと記録して、それに応じて報いを与えて」という事なのだ。神が、嘆きを喜びに変えて下さる事を期待しているのである。それはダビデだけではなく、全ての神のしもべの期待と信仰である。そう、この詩は、ダビデのさすらい(逃亡生活)にオーバーラップさせた、地上をさすらう人間へのメッセージなのだ。
 全ての人の人生は神の書に記録されている。監視されているのではない。心に留めて頂いているという事だ。見捨てられてなどいないのである。苦しみも涙も、ちゃんとケアーして下さるのだ。地上では患難は尽きないが、最終的には神は、私達の味方として敵を退けて下さる。だから御言葉の約束に信頼して歩む人は幸いなのだ。
 神への誓い(12節)とは、「これからは神に従います」という洗礼時の誓いだ(Ⅰペテロ3:21参照)。罪が赦される喜びの故の誓いだ。だから感謝を捧げる、それがクリスチャンだという事である。
 そのように私達が救いという幸いを得たのは何の為か。それは命の光の中(神の御前)を歩むためだ(13節)。世の光であられる主は天に帰られた。しかし今は、主の御霊なる聖霊が内住して下さっている。その御霊に導かれて歩む、それが光の中(神の御前)を歩むという事だ。
 洗礼式での神への誓いを思い出し、神に従う日々を歩もう。御霊に導かれて、真理を知って、自由にされよう。その為にこそ、救われたのだから。神は全ての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられるのだ。

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