預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇55

 ダビデには沢山の敵がいた。中でも筆頭はサウル王(義父)、次にはアブシャロム(実子)だろう。実に厄介な敵が揃ったものである。倒すのは重荷だ。負けても辛いし勝っても辛い。しかし、彼らなら何とかなる、と12節。事実、ダビデは勝利を得た。しかし、そうではなくて(彼らが敵なのではなくて)、共に礼拝した信仰の友が裏切った、それが辛くて仕方ないと言うのだ。
 なるほど、それは悲しい事である。だが彼らに対して『生きたまま、よみに下るがよい』とまで言うとはどうした事だろう。滅びを宣告されてしまうほどの「信仰者の裏切り」とは何か。それは、背教(異端化、カルト化)だ。「異端は滅びをもたらす」とⅡペテロ2:1にある。
 そんな教えを教会に持ち込む偽教師が昔からいた。それは旧約時代に偽預言者がいたのと同じだと聖書は言う。そして「彼らは必ず滅びる」と。だから私達は、異端に対して決して寛容であってはならない。なのに、そんな教えに惑わされてしまった信仰者がいる事を嘆いているのだ。いや、それはダビデがと言うより神が、である。神は『御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つため』(ヨハネ3:16)にこそ、ひとり子を十字架につけられた。なのに、その「御子を信じた人」が惑わされ滅びるなら、神はどれ程、嘆き悲しまれるだろう。その辛さ悲しみが、この詩を通して現されているのだ。
 だから、偽教師達の混乱を願う詩人。しかし、偽教師は都中に蔓延っている(9~11節)。主の時代にも、律法学者・パリサイ人らが「追いきれない重荷(律法主義)」を人々の肩に乗せていた。終わりの時代である今も、間違った教えで苦しめられている人らがいる。だから『その重荷を主に委ねよ』(22節)と言うのだ。それはすなわち、「正しい信仰を掴め」ということだ。主も言われた。「重荷を負っている人は来なさい。休ませてあげる」と。
 22節は新共同訳では『主は、あなたを支えて下さる。主は、従う者を支え、とこしえに動揺しないように計らって下さる』だ。
 私達は、神の純粋な教えを慕い求めよう。キリストの言葉に留まろう。そうすれば真理を知り、自由になる。

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