預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇103:14~22(儚い人間)

103:14 主は、私たちの成り立ちを知り、私たちがちりにすぎないことを心に留めておられる。
103:15 人の日は、草のよう。野の花のように咲く。
103:16 風がそこを過ぎると、それは、もはやない。その場所すら、それを、知らない。
103:17 しかし、主の恵みは、とこしえから、とこしえまで、主を恐れる者の上にある。主の義はその子らの子に及び、
103:18 主の契約を守る者、その戒めを心に留めて、行なう者に及ぶ。
103:19 主は天にその王座を堅く立て、その王国はすべてを統べ治める。
103:20 主をほめたたえよ。御使いたちよ。みことばの声に聞き従い、みことばを行なう力ある勇士たちよ。
103:21 主をほめたたえよ。主のすべての軍勢よ。みこころを行ない、主に仕える者たちよ。
103:22 主をほめたたえよ。すべて造られたものたちよ。主の治められるすべての所で。わがたましいよ。主をほめたたえよ。



 造り主なる神は、人の成り立ちをご存じで「人はちりに過ぎない」と言う。確かに、人の体は土地のちりから造られた(創世記2:7)が、吹き込まれた命の息は尊いはずだ。だからこそ「亡びてほしくない」と救いの道を開いて下さったのであり、決して、人間をゴミだとは思っておられないただ、人の人生というものは、ほんの束の間だと言うのである。それは、朝に咲いた野の花が夜には枯れるように。


 神は、そんな人間を心に留めて、恵みを注ぐと言う。ただし「主を恐れる者」にだ。それは「父がその子を憐れむ」と同じ(13節)で、当然のことである。


 問題は、恵みを注ぐ対象が「主を恐れる者」だけでなく「主の契約を守り、その戒めを行う者」(18節)とされているところだ。ショックを受けるかもしれない。やはり律法を守るべきなのか、と。戒めを守らないなら恵みは注がれないのか。福音はどこへ?


 福音は「主の契約」にある。「戒め」もだ。それらは確かに「律法」である。しかし律法は「キリストに導く」ためのものだ「行いではなく、キリストを信じる信仰によって救われる」ということこそ「契約」の集大成なのである。ゆえに「契約を守り、戒めを行う」ということは単に律法を守るということではなく、「キリストを信じて、キリストの教えに心を留め、それに従って生きる」というところに到達すべきなのである。その人に「恵みは及ぶ」のだ。


 何しろ神は、人はちりに過ぎないと知ってるし、いくら咲き誇っても束の間だと分かってるのであって、そんな人間に完全な行いを求めても無駄なのだから。むしろ、儚い人間だからこそ「心に留めて」下さって、信仰による救いの契約を与えて下さったのだ。だから、その契約を守る者に恵みを注ぐという訳なのである。それゆえに結論として「主をほめたたえよ」(20~22節)と歌う、それが103篇だ。それは1~2節の繰り返しだが、「序論の中に結論あり」ということなのである。


 神の救いの計画のゆえに、神をほめたたえよう。癒し・奇跡が起きたら……ではない。神の救いの計画のゆえにだ。その救い計画の完成(新天新地)にこそ、最大の癒し・奇跡がある。だから、その信仰を守らなければいけない。その様にして、神の恵みを受ける者であろう。

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