預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇66

 この詩の特徴は、13節から主語が「私達」から「私」に変わる事だ。つまり12節までは、イスラエル(私達)にとっての共通した事柄(出エジプト)ゆえに喜び賛美せよ、という事を言っているのである。その様な大局観的な読み方をする事によって、「恐るべき神の御業」が何であるのかが分かる。
 それでは13節以降の「私」とは誰か。それは、どうやら祭司であると思われる。祭司は、民の罪の赦しを求める為のいけにえを捧げる。そうして自らの務めを果たすのだ。所が、この「私」は、いけにえを捧げる事によって「自分の誓いを果たす」と言うのである。その誓いは「自らの苦しみの時に言った」とも。これはゲッセマネの主イエスだ。主は苦しみながら「御心(自らを十字架でいけにえとして捧げる事)に従う」と祈られた。民の罪の赦しの為にだ。そして、その誓いは果たされた。この十字架による救いの御業のひな型、それが出エジプトなのだ。だから「恐るべき神の御業」とは、イスラエルにとっての出エジプトであり、クリスチャンにとっての十字架の事なのである。そして、その大いなる御業ゆえに喜び賛美せよと言うのである。
 続いて「神を恐れる者は皆、聞け」と「私」は言う。つまり、これは主からのメッセージだ。それは「心にいだく不義を取り除いて自ら神を崇めるなら恵みは自分のものとなる」という事である。ただし、これは伝道メッセージではない。神を恐れる者に対して「聞け」と言っているのだから。果たして、神を信じる私達にとって「心にいだく不義」とは何か。結論から言えば、それは「自分が王でありたい」という思いだ。つまり、神に支配される事(神の国)を求めないという事であり、それは真実な礼拝者ではないという事なのだ。逆に言えば、神の支配を求め、霊と真をもって礼拝するなら御恵みは取り去られない、という事だ。
 私達は「心にいだく不義」を取り除こう。神を王として、へりくだって、(私達に本当の幸せ・御国の幸いを与える為の)「恐るべき御業」、救いの業を崇めよう。そうすれば、御恵みは取り去られる事はない。

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