預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇67(必読に値すると思います)

 祝福を求める詩、と言うより、祈りである。しかし僅か7節の短い詩の中で3度「祝福して下さい」と願うのは、祈りの本質(願い事ではなく賛美)から外れている(もしかしたら「御利益信仰だ」)と言われるかもしれない。しかし、それが神のメッセージのはずはない。
 そもそも信仰とは、自分が信じたい事を勝手に信じればいいのではない。神の約束は絶対だと信じる、それが聖書の教える信仰である。そう、私達は「キリストを信じる者は神の子とされる」という神の約束を信じる、その信仰によって罪の赦しと天国という素晴らしい祝福を受けたのだ。しかし、それでも、信仰を祝福を得る為の手段としてはならないのであって、聖書はそれを厳しく戒めている(Ⅰテモテ6:5)。
 例えば「献金したら祝福される」という考えがある。「されない」とは言わないが、祝福されたくて献金するとしたら、それは「投資」ではないか。「元手が倍になる」ことを期待して……、それはギャンブルだ。捧げる動機は、そんなものであってはならない。賛美、礼拝を捧げるのは何故か。それは救われたから(感謝だから)だ。何か貰おうと思って、下心で捧げるのではない。まず祝福されたから捧げる、礼拝も献金も、そういうものである。
 「信仰は望んでいる事柄を保証する」(ヘブル11:1)とあるが、人間の勝手な望みが何でも保証されてるわけはない。信仰によって保証された望み、それは天国だ。それはまだ見てないけど確信する、それが信仰なのだ。信仰は、打ち出の小槌ではない。信仰は、神の前にへりくだる事だと言える。私には神が必要だ(主こそ我が神、従います)と。
 そういうわけで、間違いなく聖書は、御利益信仰を教えない。では、67篇は何か。何故、祝福を求めるのか。それは「神の救いが国々に知られる為」だと2~3節にある。マタイ5:10~16の「困難に耐え、信仰を守り抜いて、地の塩・世の光として輝く、その姿を見て人々が神の救いを知る事が出来るように」に通じる。
 結局の所、67篇で願う「祝福」とは何か。それは、信仰を守り抜く(世の光として輝く)事が出来るようにという事、それが「祝福」なのだ。その姿が証となって、人が神を知るように、と私達も願おう。

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