預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇68(これも必読でしょう)

 この詩の全体像を眺めたい。31節まではイスラエルの歴史(出エジプト、その後の荒野での旅路~カナン征服~シオンが神の家として選ばれる~イスラエルの周りの国々を打ち負かす~ダビデの勝利の凱旋)である。そして、それは実は、単なる歴史ではなく「救いのプロセスの青写真」であり、それを雛型として(同じ様なプロセスを経て)人は救われる、という事、言わば、聖書の粗筋なのだ。
 それで神は、その「粗筋」をここで示して、何が言いたいのか。大事なのは32節以降だ。諸国に対する祝福への招きだが、祝福に招いているとはいえ、何もかもを抜きにして一足飛びで祝福という訳にはいかない。祝福に入る為には、まず悔い改めが必要なのだ。そこで『神の力を認めよ』(34節)、すなわち、神を神とせよ、と言う。そして、神こそ恐れられるべき方である(35節)と。その上での、本当の祝福(人間が求める身勝手な祝福ではなく、神が人間に与えたいと願っておられる祝福、すなわち、罪の赦し、永遠の命、死からの脱出)なのである。その祝福への招きが、イスラエルの歴史の中に秘められているのだ。だから、イスラエルを知る、という事は、神の招き(救いの計画)を知るという事であり、言い切ってしまうなら、イスラエルは、教材として用いる為に選ばれた、という事なのである。パウロが「肉のイスラエルがそのままイスラエルなのではなく、神の約束を信じて生まれた子供がイスラエルだ」(ローマ9章)と言っている通りだ。
 その神の招きに応答して悔い改めて義人とされた「正しい者」は、主の再臨に(小躍りして、喜び歌って)備えよ(3~4)と言う。要は、信仰生活を喜び楽しめという事、それが再臨への備えなのだ。しかし、偽りの教えでは信仰生活は苦しくなる。純粋な信仰(キリストの教えの真実は何か、という事)が必要だ。だから「主が来られた時に責められる所の無いように全く聖なる者となれ」(Ⅰテサロニケ5:23)と聖書は言う。「聖」それは「分離」と言う意味だ。つまり、偽りの教えから完全に離れる事、それが「全き聖め」なのだ。それこそが、主の再臨の時に、主に喜ばれる(責められない)為の「備え」なのである。悔い改めて義とされた者は、そうせよ。それが、この詩のメッセージだ。

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