預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇119 その⑧(73~75節)

 人は神に造られた。これはクリスチャンの信仰の大前提だと言える。加えて、「神は一人一人を個性的な最高の作品として丁寧に造って下さった」とも言われるが、果たしてそうか。もしそうなら、ある人は背が高く美しく造られるが何故、別の人はそうではないのか。不公平感は否めない。


 勿論、最初の人は、神が直々に造った。それがアダムとエバだが、彼らは、生まれた時点で完成した成人だった。何しろ神の作品だから不完全な状態で生まれるはずがない。しかし創造の業が完成して、神はその手を止めた。それ以降、森羅万象は神の定めたシステム・プログラム通りに動き始めた。それには当然、人間も含まれている。つまり、人間は男と女を通して、赤ん坊として生まれるようになったということだ。そこに神がいちいち手を出す必要は無い。親の遺伝子情報に従って子供は生まれる、それが神のプログラム(そうなるように神が造ったの)だ。だから、いずれにしても、人は神に造られた、ということなのであって、猿の子孫ではないのである。


 その人間が、もう一度神によって造り直されることを言うのが73節だ。すなわち、神の子として新たに生まれること(再創造)である。それはエペソ2:10にも言われている通り、キリストにあって(聖霊の導きで)一人一人が他の人とは違う不思議な方法で信仰へと導かれた、まさに神の「作品」なのである。


 更に、神の子として再創造されてからも尚、神は一人一人を造り変える。もし道を間違えたなら、懲らしめて悔い改めさせることによって、信仰者を確立させるのだ。詩人は、それを体験した(71節)。幸いなのは、その「神の懲らしめ」だ。そのおかげで神に従う心へと造り変えられたのだから。それは真実で正しい(75節)ゆえに、更なる悟りと御言葉を詩人は求めているのである(73節)。そして、その様に、次の悟りへとステップアップして行く人がいるのを喜ぶのが、本物の神のしもべだと言うのである(74節)。そう、私達も「真実を求める人達がいる」ということを喜ぼう。そして、いよいよ悟りを求め、神の(愛ゆえの)懲らしめを喜ぶ者となろう。

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