預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇119 その⑨(76~80節)

 詩人は、一時は信仰が「的外れに」なってしまっていた。それが「罪」である。つまり、「罪を犯すな」と言うのは「的を外すな」ということなのであって「嘘とか盗みとかの細々とした悪事を避けて聖い人になれ」ということではないのだ。それらは的外れの結果起きることに過ぎない。本質ではないのである。


 アダムとエバの行なった罪とは、まさにその「的外れ」なのであって、神の戒めを誤解することとサタンの偽りによって、曲がってしまったのである。その結果人間は、殺人から始まって、様々な悪事を行うようになってしまった。だから、御言葉を誤解・曲げること(それが罪)をこそ避けるべきなのだ。


 詩人を惑わした者(悪い働き人)に対し、恥を見ますようにと詩人は言う。憎しみか。いや、恥を見て(苦しんで)悔い改めることを求めているのである。それが幸いだということを詩人は経験しているからだ。とは言え、悪者が必ず悔い改めるとは限らない。だから主は言われた。犬に聖なる物を与えてはいけない。豚に真珠を投げるな、と。


 仮に悪者が悔い改めたとして、自分を破滅に追い込もうとしたその悪者の救いを素直に喜べるかどうかは微妙かもしれない。複雑な心境になったとしても不思議ではない。だから詩人は願う。「あなたの恵みが私の慰めとなりますように」と(76節)。神の恵みによって慰められたいということだが、癒しや奇跡、繁栄を受ければ慰められるということだろうか。いや、的を外してはいけない。神の教えこそが幾千の金銀に優る恵み(72節:新共同訳)だということである。


 もし、神の教えを慰めとしないなら、教会とは何なのか。面白い話を聞きに来る所? ならむしろ寄席に行けばよい。交流の場? それならサークルや老人会と変わらない。


 大切なことは一つ、神の言葉が教会の要であり、恵みだということである。ゆえに詩人は言う。「あなたの御教えが私の喜びだからです」(77節)。だから、御言葉による憐れみと慰めを与え、私を生かして下さい、と願うのだ。
 私達も、御言葉が恵み・慰め、という心になれるよう主に求めよう。

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