預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇119 その⑩(81~88節)

 詩人は「絶え入るばかり」だ(新共同訳では「衰えた」)と言う。それも「救いを慕って」である。つまり、死にそうな状態でまだ救いが来ていないということだ。82節でも、御言葉の慰めはいつになったら来るのか、と訴える。詩人は余命幾ばくも無い老人なのだろうか。あるいは、例えばパウロについての預言的な個所と取れなくもない。彼は、早く天国に行きたいと願っていた。「主よまだですか?」と、主の慰めを待ち望みながら迫害に耐えていた。いずれか定かではないが、いずれにしても「地上での苦しみの中で、神の慰めを待ち望む心」を表している。そして、それは殆どの人の心でもあるのではないだろうか。特に今の時代、狂った世の中への絶望さえ感じるほどだ。


 だから、そんな状況にどう対処すればいいのかを学びたい。鍵となるのは83節の「煙の中の皮袋のよう」という表現だ。新共同訳では「煙にすすけた皮袋のようになっても」である。


 まず「皮袋」は葡萄酒や水などの入れ物として、生活の中で毎日のように使われるものだ。それが煙にすすけてるということは、使われず吊るされたままになってることを意味する。それは人間にとってどのような状態なのだろう。何も出来ることは無く横たわっているだけ(死ぬ直前)ということだろう。ただし「たとえ、そうなっても」であるから、詩人はまだ死にかけてはいない。けど安心ではない。いつそうなるか(命の日数がどれだけあるのか)は分からない(84節)。だから、常に備えておくしかない。すなわち、その時がいつ来ても大丈夫なように「その時までずっと神の掟を忘れない」と言うのが83節だ。


 覚えておくべき神の掟とは? 「安息日を守れ」か、「偽るな」か。いや「キリストに信頼する者は失望しない(救われる)」という神の定めこそ、死の時に覚えておくべき掟だ。他の掟など問題ではない。何はどうあれ、神への「信仰によって義と認められる」のであるから。


 所が、それを曲げようとする敵がいる、と詩人は言う(86節)。偽りの教え(律法主義、ご利益信仰など)によってだ。だから聖書は教える。「上にあるものを思いなさい」と。そこにこそ希望と解決、命があるからだ。この神の掟を忘れずに日々を歩もう。それが備えである。

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