預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇123(都上りの歌④)

 神の憐み・助けを求める詩人は、嘲りと蔑みでもう一杯だ(4節)と言う。決して命を狙われているわけではないのだが、詩人は追い詰められている。誰にか。安逸を貪る者(新共同訳:平然と生きる者)達、すなわち、神を知っていながら神に逆らって平然と生きる人達にだ。


 律法に従うなら、彼らは「死刑」となる(例:申命記21:18~21)。しかし、箴言20:20~22では、その「悪への報い」をするな、と言う。律法を守っても自らの救いにはならないからだ。だから、むしろ「主を待ち望め」と。そうすれば「主があなたを救われる」と言うのである。その点において詩人は、追い詰められているのだ。つまり、律法に背く者達を裁きたい欲求に飲まれそうになっているのである。


 同様に「高ぶる者達」からもだ。ヘブル語聖書の注釈によれば、それは「高慢な圧迫者」のことだとされる。主が言われたように、彼らは人に重荷を背負わせて自分は指一本触れず、天国に入りたい人を入らせない…民を苦しめる宗教指導者達がそれに当たるだろう。


 さて、そこで。これは「都上りの歌」だ。当時の正しい信仰生活の形として、神に目を向ける(神御自身を求める)ことを表す。そうすれば神は報いて下さるとヘブル書は言う。だから詩人も「神に向かって目を上げる。目を主に向ける。主が憐れまれるまで」と言う(1~2節)。果たして、その「主が憐れまれるとき」は来るのか。必ず来るのか。来る。全ての人に、必ず。それは天の御国に迎え入れられるとき・救いのとき・神の恵みに満たされるときだ。そのときまでずっと、神に目を向け、神を求め続けることが必要なのだ。


 霊的な嘲り・蔑み(=偽り・惑わし・圧迫)は、魂に食い込む。内側から蝕まれるのだ。ゆえに主は言われた。「パリサイ人のパン種に気を付けなさい」と。ほんの少しのパン種が全体にまで膨らむのだ。それが「偽りの教え・曲解された御言葉・曲がった信仰」なのである。決して甘く見てはいけないものなのである。だからこそ、それに比例して、いよいよ主に目を向けることが求められる。


 神が憐れんで下さるとき(永遠の御国に入るとき)は必ず来る。そのときまで、主に向かって、目を上げて、主御自身を求め続けよう。

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