預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇122(都上りの歌③)

 「さあ、主の家(エルサレム)に行こう」と人々が言うのを聞いて詩人は喜んだ。何故か。それは、壊れていたエルサレムの町が復興したということだからだ。そう、これはネヘミヤの時代の詩だと言われている。「そうか、ついに、やっと再建したのか」と思って詩人は喜んだのである。それが、この詩を理解するための土台だ。この土台抜きで勝手な解釈をしてはいけない。
 例えば6節「エルサレムの平和のために祈れ」だ。そうだ、イスラエルのために祈ろう、と言われる理由の一つである。これこそ、土台抜きに解釈することの害である。土台に基づけば、これは「エルサレムがもう壊されませんように祈れ」という意味だと理解できるはずだ。それを誤解して、現在のイスラエル共和国(エルサレム)に平和が来るようにと祈るなら、それはどういうことか。エルサレムの平和とは、イスラム教もキリスト教もエルサレムから撤退して、ユダヤ教の神殿が建つことを意味する。その神殿でいけにえを捧げること、それこそがユダヤ人の悲願・平和なのだから。しかし、それは同時に、律法の復活であり、十字架の否定なのである。そうなるようにとクリスチャンが祈るのは大きな過ちだ。


 都上りの歌「さあ、主の家(エルサレム)に行こう」ということは、観光半分の聖地旅行などではない。巡礼は当時の必須であり「正しい信仰生活」の形なのだ。それが壊れていた(霊的に曲がっていた)、信仰的に退廃していたのである。だがようやく復興した(信仰を取り戻した)、正しい意味でのリバイバルだ。だから、もう二度と壊れることのないように祈れ、それがこの詩のメッセージである。
 だが、残念ながら、そのメッセージは届かなかった。エリヤが再来しても、キリストが来られても、イスラエルの信仰は壊れたままだった。そして今も。


 「エルサレム」とは何のことか。それは、地上のどこかのことではない。新しいエルサレム(天の都)の雛形であり、神の国(信者の心の中)の中心である。その平和のために祈るとは、中東ではなく、心の中の神の支配(平和)が壊れないように…ということなのである


 聖書は、天の御国への道を教える本だ。地上のことだけを考えていてはいけない。心の中(神の国・エルサレム)の平和を祈ろう。

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