預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇121(都上りの歌②)

 とにかく「神はあなたを守る」ということだ。


 が、そう聞くと「そうか、病気にはならない、事故にも遭わない、貧乏にもならないのだ」と信じたがる人が多いだろう。しかし主が言われた通り「この世にあっては患難がある」のだ。それを受け入れなければ、多くの人が殉教したことの説明がつかない。まさか、その時は神は休みだったと言うのだろうか。確かに、「神は七日目に休んだ」が定説だが、詩人は「まどろむことも眠ることも無い」(4節)と言う。主も「父は今に至るまで働いておられる」と。そう、神は休まない。だからこそ、確実な助けとなり得るのだ。ただし、神が助けるとはどういう意味なのかである。


 そこで、この詩は、都上り(エルサレムに礼拝に行く途上)の歌である。昔の信仰者にとっては、その巡礼こそが正式な礼拝であった。しかし、主の十字架によって万人祭司制が開かれ、誰でもいつでもどこででも礼拝が出来るようになったゆえ、もはや巡礼は不要だ。むしろ、生きること(生活)の全てを通して神を崇めるべきである(ローマ12:1、Ⅰコリント10:31)。そして、天国(新しいエルサレム)に向かっての旅、それが新約時代の信仰者の正式な礼拝生活なのである。


 だから、都上りの歌とは、クリスチャンにとっては、天国への旅路の歌なのであり、それは「行ったり来たり」するものではない(8節は交通安全の約束などではない)、行きだけ(一方通行)なのである。だが、それが難しい。狭い道なのである。惑わしや敵の攻撃もある。だから、神の助けが必要なのだ。聖い教えに留まり続けるために。


 そんな助けはどこから来るのか。この世の知恵からか。富と名誉からか。いや、「天地を造られた主から来る」(2節)のである。それを知って、神を求めるなら、神は報いて下さる(ヘブル11:6)。神以上に他のものを求めるべきではない。富・繁栄も魅力的ではある。信者が増えることも素晴らしい。しかし、本当に必要な助けは、そこから来るのではない。神から来るのだ。


 だから、主は「神の国を第一に求めよ」と言われた。すなわち「神に支配されることを自らの最大の願いとせよ」ということだ。そう、天国こそ目標である。そんな正しい信仰者の歩みを主は守る。

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