預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇119 その⑯(129~136節)

 御言葉の戸が開くと、光が差し込み、悟りが与えられる。誰にか。「わきまえのない者」にだ(130節)。それは原語では「何でも受け入れてしまう単純な者」のことなのだそうだ。


 その点、残念ながらキリスト教会は「何でも」受け入れて来た。例えば心理学。それ自体悪いものではない。が、キリスト教に組み込む必要は無い。心理学は宗教ではないし、天国を教えるものでもない。心理学によって罪の赦しは得られないのである。しかし教会はそれを取り入れ、一大ブームとなった。今でも、インナー・ヒーリング、エリヤハウスという形で継続されている。他にも、可能性思考、積極思考、悪霊追い出し、弟子訓練、セル…と見境が無いのかと言うほどだ。


 パウロは「福音以外は要らない」と言っている。勿論、医学は必要だし科学も音楽も必要だが、パウロは直接主に諭され、光が差し込んで悟りを得たのだ。罪の赦し・救いの為に必要なのは福音だけだと。ゆえに詩人も渇望する。悟りを。御言葉の戸が開かれることを(131節)。


 更に詩人は、神の定めの実現することを求める(132~135節)。御顔を向け、御顔を照らして下さいと。主のさとしを守るなら、そうなるはずだということである。これは民数記6:22~26にある祈りの言葉だ。主の御言葉に留まる者への神の祝福、それは、神が御顔を向けて下さる(すなわち、神と顔と顔を合わせる)ということ、つまり、神の国に入ることが出来て、完全な守りと平安、祝福を受けるということである。それを、御名を愛する者達の為に決めているということなのであって、その通りにして下さいということなのである。


 最後、136節は一転して涙。彼らが御教えを守らないからだと言う。神の民イスラエルだ。主も「ああ、エルサレム…」と嘆かれた。神の民が、わきまえが無いのだ。何でも受け入れてしまう。金の仔牛も、バアルも、占い師も、偽預言者も。そのイスラエルの歴史は、その後の教会の姿にオーバーラップする。


 罪の赦し・救いの為に必要なのは、純粋な教え・本当の福音だけだ。他のことは二の次である。それをわきまえる悟りが必要だ。御言葉の光に照らされ、悟りが与えられるように渇望して求めよう。

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