預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇119 その⑰(137~144節)

 「涙が川のように流れます」(136節)とあるが、そんなに出るわけがない。当然ながら「川のように」は詩的な表現であって事実ではない。いくら聖書とは言え、何でもかんでも「文字通り」に信じるのではなく「聖書は何を言わんとしているか」を読み取るべきなのである。


 とにかく詩人は、御言葉を非常に愛している。その熱心さが「私を滅ぼし尽くしてしまいました」(139節)とはどういうことか。信仰に熱心過ぎて家庭崩壊を招いたのだろうか。いや、原因は、御言葉を愛したからではない。逆に、敵(同胞)が神の言葉を忘れている(ゆえに、偽りや惑わしを吹聴する)からである。これは136節と同じパターンだ。何しろ、本来なら神の家族である同胞が詩人に敵対し、惑わし、滅びの道へと誘うのだから悲しくて魂が打ちひしがれるのも無理はない。それもこれも、詩人が熱心に御言葉の真理を愛するがゆえである。何故なら、霊的な真理は、この世の主であるサタンにとっては邪魔で仕方がないからだ。だから主イエスも弟子達も迫害された。そして今でも、真理を愛する人は、敵の標的とされるのだ。


 ではやはり、御言葉を愛する熱心さのゆえに滅びるということか。いや逆だ。御言葉を愛さないということこそが滅びを招くのである。140節は新共同訳では、御言葉は「火で練り清められたもの」だ。すなわち、純粋(混じり気がない、真実)で、それゆえに、その裁きは絶対で正しい。背く者は滅びるのだ。しかし、従う者には(たとえ地上では迫害があっても)正しい裁きによって救われる。それが喜び・楽しみだと詩人は言う(141~143節)。だから、御言葉の正しさを悟らせ理解させて欲しい(それによって命を得させて欲しい)と詩人は願うのである(144節)。神の言葉の正しさ、それが命なのだ。


 最大の危機(滅び・地獄)を避けるために必要なこと、それは、真実な主の御教えを愛することである。真理を愛するがゆえに敵の標的とされるかもしれなくとも、である。決して、迫害を恐れるな(堂々と殉教せよ)ということではない。ただ、霊的真理を守ることが命を守ることなのである。それを見失ってはいけない。そのために私達も詩人と同じく「悟りを与えて、生かして下さい」と祈ろう。

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