預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇119 その⑱(145~152節)

 主イエスは、朝早くまだ暗い内に起きて祈ったと福音書に記されている。詩人も「夜明け前に起きて叫び求め」る。しかし、これは決して「早天祈祷会」のお勧めではない。詩人は、そうせざるを得ない状況にある(ゆえに必死に神に訴えている)のであって、それは62節にもあったように、夜も眠れない程の苦しみなのであり、熟睡出来ず、仕方なく朝早く目が覚めてしまっているのだと思われる。そんな時なら誰でも、のんきに眠ってなどいられないだろう。だから、その必然性があるなら朝早く起きて祈れば良い。しかし、必ずしも、そうすれば祝福されるというような、法則という訳ではない。


 そこで詩人の願いは「主の決めておられるように、私を生かして下さい」だ(149節)。しかし人は死ぬ。それが神の定めだ。もし一旦は死の危機から救われたとしても、その後も死の危機は来る。それは死ぬまでずっと来る。だから「私を生かして」は無理な注文だということになる。だが、詩人が言うのは「主の決めておられるように」だ。つまり「信仰による永遠の命を生かして下さい」ということを願っているのである。何故なら、それを奪おうとする敵がいるからだ(150節)。彼らは偽りの教えで多くの人を惑わす。詩人も一時は惑わされていた時があった。が、神に懲らしめられて、戻ることが出来幸いだった。151節にある通り、神は遠く離れてはおられない(参照・申命記30:14、使徒17:27)。真理は、探し求めるなら見出すことも出来るのである。


 詩人は、その(神がとこしえから定めておられる)真理「信仰による救い」を昔から知っていた(152節)。なのに惑わされたことがあるのだ。だからこそ「主の決めておられるように、私を生かして下さい」すなわち「敵の惑わしに負けないように偽りから守って下さい」と心を尽くして願うのである。これが詩人の(朝早く目が覚めてしまう程に切羽詰まった)必死の叫びである。


 詩人の苦しみは他人事ではない。今も偽りの教え、惑わし、広い道、敵の攻撃…は、そこら中にある。私達の周りを取り巻いている。だから私達も、詩人と同じように祈って、真理なるキリストに留まらせて頂いて、神の定めの通りに、永遠の命への道を歩み続けよう。

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