預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇119 その⑲(153~168節)

 「偽りと惑わしで、永遠の命を見失わせようとする敵がいる。だから、神の定めの通りに信仰によって救って下さい」という154~156節は既出だが、大事なことなので繰り返されている。


 さて、敵は「君主ら」(新共同訳では「地位のある人々」)だ。宗教指導者達がイエスを迫害したのと同じ構図である。しかし、神を恐れることこそが道を外れない為の秘訣だと詩人は知っている(161節)。ゆえに御言葉を喜ぶ。それも「大きな獲物を見つけた者のように」(162節)。新約的に言えば、畑の中に埋まった宝を見つけて大喜びで…という所だろう。つまり、御言葉の真理こそ宝であり、それを発見し喜んでいるということである。それ程に詩人は偽りを憎み、真理を愛す(163節)。真理によってこそ救いに至るからだ。ゆえに、真理を守ることこそ御言葉を愛することであり、救いの道・義の道なのだ。その道は、一日中、生きている限り歩み続けなければいけない(164節)。


 その様に御教えを愛する者には豊かな平和があり、躓きは無い、と165節は言うが、これは現実の生活の話ではない。「この世には患難がある」と主が言われた通りだ。ゆえにこれは、心・魂においての平和、すなわち、救いの確信ゆえの平和である


 その救いの完成を待ち望むがゆえに詩人は、神の仰せを行っていると言う(166節)。ただし「私の魂は」と167節にある通り、実際には行いとしては不完全だけど、魂はそう願っているということだ。詩人は、そのことには自信をもって言う。私の道は全てみ前にある通りです(168節:新共同訳)と。つまり、生き様は全て神の前にさらけ出されているということだ。すなわち、主がご存じの通り、私の魂は御言葉に従いたいと願っています、ということである。


 ペテロが復活の主に言った言葉を思い起こす。彼は、実際の行動としては主を裏切ったけど、それでもペテロは言った。私があなたを愛していることはあなたがご存じです、と。


 私達も、戒めを完全に守っているとは決して言えない。しかし魂は、主に従いたいと願っている。その思い(生き様)は神のみ前にあり、主がご存じの通りなのである。だから、この道を歩み続けよう。

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