預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇119 その⑳(169~176節)

 詩人の心からの叫びである「御言葉の通りに悟りを得る」ことと、「御言葉の通りに救われる」という切なる願い、両者はほぼ同義と言える。そして、それは119篇の結論であり、聖書の目的である。この「目的」は決して見失ってはいけない。見失ったら、何の為の信仰か分からなくなる。溢れる感謝、賛美の源泉は救いの喜びなのだから。それゆえ主は言葉を変えて何度も語られた。全世界を手に入れても真の命を失えば何の得があるか、天に名が記されていることを喜べ、と。


 そこで詩人は、主の御手で支えられることを願い、その為に御言葉に従うことを選ぶ。そして、主の御教えを喜ぶ。救いを慕うがゆえだ。


 それなのに、だ。問題は「あなたの仰せを忘れません」と言いながら詩人は「滅びる羊のように迷い出た」という矛盾(176節)である。これは何か。


 思い出そう。詩篇は預言書である。それもキリストについての。そう、これは、迷える子羊を捜し求めるキリストの姿の暗示だ。その救い主を送るという聖書の約束(主の仰せ)を忘れない、と詩人は(迷い出たからこそ)言うのである。つまり、救いを慕うということだ。


 「御言葉を愛する詩篇」と言われる119篇、その締め括りが「御言葉の通りに…」(169~170節)と御言葉を基準・根拠としている。御言葉が約束していないこと(人間の勝手な願望)を信じ込んでも、それは信仰ではない。御言葉とは? 御言葉を愛するとは?


 御言葉=聖書であり、その中心はキリストである。そのキリストについての御言葉は全て必ず成就する。そしてキリストご自身が御言葉であられる(ヨハネ1:1)。


 だから結局、御言葉を愛するとは、キリスト(真理なるお方)を愛することであり、真理を愛する(守る)ことなのだ。ゆえに、御言葉を宣べ伝えるとは、キリストを…ということである。


 だから、そのキリストが何を教えたかを忘れてはいけない。主は、「疲れた人…は来なさい。休ませてあげる」と言われたのである。そしてまさに、119篇の締め括りに暗示されていた通りに、迷える子羊を捜し求めて、私達を真理と解放、命へと導いて下さった。それこそが聖書の中心(主の仰せ)であることを忘れないようにしよう。そして、救いの完成を慕い求めて、御教えを喜ぼう。

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