預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇75(断言)

 詩篇は単なる文学ではないし、詩人の心情を詠うだけでもない。聖書(神のメッセージ)だ。そして聖書は、信じる者が滅びる事のないようにというのが狙い(目的)であって、聖書の教えの全てが(詩篇も)その為にこそ存在するのである。そういう意味で「『滅ぼすな』の調べに合わせて」という表題は、まさに、である。
 さて、2~5節で神の「直接のセリフ」として悪者への裁きが宣言されている。その中で「横柄な態度で語るな」(5節)とあるが、新共同訳では「胸を張って断言するな」である。だが、それが裁かれるべき「悪」なのか。では、控えめに、自信なさげに言えば赦されるのか。
 そもそも、聖書の言う「悪」とは何かだ。例えば「悔い改め」は後悔や反省ではなく方向転換の事であるし、「罪」も犯罪ではなく的外れの事である。同じように「悪」も、ゴミのポイ捨てとかではなく「神を神としない」(神に頼らない=自らを神の上に置く)事を「悪」と聖書は言うのである。その代表がサタンだ。そして、その同一線上に律法主義がある。つまり、自分の力に頼る、自分の正しさに頼る、完全な行いをすれば救われる、と主張する事だ。その点において「胸を張って断言するな」と神は言うのである。救いは、行いではなく神の恵みによるという事だ。人を高く上げる(義人とする)事・救いの業は地上からは出ない。荒野から(バプテスマのヨハネ)でもない。裁きも救いも、低くするも高くするも、神の業なのだ(6~7節)。
 杯は主の御手にある(8節)。律法主義への断罪だ。それは泡立つ程の怒りのようである。しかし「この世の悪者共は、こぞって飲み干す」。それも「カスまで」。例えば「神と同じように完全になれ」という主の言葉は「行いの正しさを追及するのなら、そこまでやらなきゃ救われない」という趣旨(律法主義を否定する為の言葉)なのに、その杯を飲み干す(とことん律法主義を以って完全になろうとする)ように。
 しかし詩人は「ヤコブの神を誉め歌う」。約束の子が真のイスラエル、すなわちヤコブだ(ローマ9:6~8)。神の約束を信じる者を救う、その為の十字架、その御業をなして下さった神の恵みに拠り頼む、そこに希望がある。そのような生き方をする者となる、と断言しよう。

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