預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

まぼろし(箴言29:18)

 「幻」は、英語では「ビジョン」である。それは、将来の計画とか目標、あるいは理想像というような意味合いで使われることが多い。しかし、ここで聖書が教える「幻」は、そのようなものではない。勿論、単なる夢や幻覚などではない。神から与えられた重要な意味のあるものである。それは、使徒18:9に、『ある夜、主は幻によってパウロに、「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。……この町には、わたしの民がたくさんいるから」と言われた』とあるように、ビジョンを見せるという形で語られた神からのメッセージなのである。その最大のものが黙示録だ。神はヨハネに壮大な幻を見せた。世の終わりには霊的な世界において何が起きるのか、どのようにして救いは完成するのか、神の計画のクライマックスである。それは決して、ヨハネ個人の年間目標などではないし、人生設計でもない。神からの啓示であり、預言、すなわち、メッセージなのである。
 というわけで、『幻がなければ民は、ほしいままにふるまう』という御言葉は、「大きな夢・志・目標を持て」というようなことではない。その本当の意味は、「神からの語りかけ(教え・戒め)がなければ、民は堕落する」ということなのだ。それゆえに、『しかし、律法を守る者は幸いである』と続くのであり、それでこそ意味が通じる。つまり、『幻』も『律法』も、神の言葉(戒め)のことなのだ。
 そこで文脈を拡げて見ると、15~17節では、子供をしつけよ、と教えられている。しかし、19節には、『しもべを言葉だけで戒めることはできない』ともある。確かに、口先の言葉だけでは人は変わらない。説得や強制では子供も反発する。ましてや、赤の他人である未信者に正しい教え(神の言葉)を伝えても、簡単に「はい、そうですか」とはいかないだろう。必要なのは、身をもって示すことだ。信仰による心の平安、感謝、喜び……その生き様こそが証しなのだ。ゆえに聖書は言う。『自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい』(Ⅰコリント6:20)と。勿論、言葉で伝えることは大切だが、それに加えて、御言葉に信頼し、自分自身の生活の中に信仰の光を益々輝かせて、証しして行こう。

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