預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

かえれ、帰れ、還れ。(イザヤ55:6~13)

 神に帰れ、とイザヤは言った。神を信じるということは、何か異常な別の世界に行ってしまうことではない。それは元に戻ること、人間の本来あるべき姿(初めの人間が罪を犯す前の、エデンの園にいた、神の愛と守りの中にある幸いな状態)に還ることなのだ。
 その「帰る場所」が無い(知らない)ということは、迷子と同じだ。自分がどこから来てどこへ行くのか分からない、ひいては、何の為に生きているのか、自分は何者なのか、分からないということだ。
 しかし聖書は教える。人間は神によって造られた、と。これが「どこから来たのか」の答えだ。そして、やがて天国(神の元)に帰る。これが「どこへ行くのか」の答えだ。それまでの間(地上の人生)は、旅だと聖書は教える。その旅を楽しむ為に、どうしても「帰る場所」が必要なのである。帰る場所を知らずに月日を漠然と過ごしているなら、それは旅とは言わない。さまよってる、と言うのだ。そんな人生は当然、苦しい。
 だから聖書は言う。帰って来い、と。そうすれば赦し、豊かに憐れんで下さる、と。どれほど豊かにか。それは人間の思いをはるかに超えている、と神ご自身が言う。
 神の元に帰る、それは、天国に行くことのみを意味するのではない。今、地上の人生を送る中で、悔い改めて、救い主イエス・キリストを信じる、それが「神に帰る」ことなのだ。そうすれば、罪の赦し、永遠の命、生きる意味と生きる力、喜びと希望、新しい人生が与えられる。それは、必ずだ。それは降った雨が、必ず地を潤し、物を生えさせるように、必ず、その人生に豊かな実を実らせる。茨の代わりにもみの木が、おどろの代わりにミルトスが……つまり、呪いに代わって祝福が臨むのだ。
 神は待っておられる。今の内に神に帰るべきである。決して、神が会ってくれなくなるのではない。神が離れて行ってしまうのではない。離れてしまうのは、いつも人間の側だ。エデンの園から出て行ったのは人間なのだ。私達は、そうはなってはいけないし、今、そうでない(神から離れようとしていない)内に、神を呼び求めよう。主は豊かに憐れんで下さる。

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