預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

Revisit? No, Brush Up(ホセア6:6)

 神は『誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない』とは、どういうことか。主イエスも、『行って、学んで来なさい』と言われた。
 ホセア6:1~3で、イスラエルの「悔い改めの言葉」を見る。表面上は、立派な言葉が並んでいる。しかし神は、続く4節で、誠実ではない、とイスラエルを非難する。何故なら、それは、本気の悔い改めの言葉ではなく、その場しのぎのお題目のような祈祷文に過ぎなかったからだ。そんないけにえは喜ばない、と神は言われる。むしろ、誠実を(本当の悔い改め、本当の信仰)を、すなわち、「神を知る」ことを喜ぶ、と。
 私達は、神を信じるだけでなく、知ることが必要だ。勿論、先ずは信じることが先決だが、更に、体験的に知ろう、ということだ。
 そもそも、信仰とは、『望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるもの』(ヘブル11:1)である。私達の「望んでいる事がら」とは、天国・復活・永遠の命…である。それらは、まだ目に見えない(実際には体験していない)から、知らない。けれども、それを保証し、確信させる、それが信仰なのだ。
 対して、神様は、体験していないから知らないけど信じる、というような存在ではない。すなわち、ただ信じているだけではなく、神の愛、恵み、力…を体験できるということだ。そのようにして、「神を知る」ことを喜ぶ、と神は言われるのである。
 ただ、残念ながら、人間は、すぐに忘れる。イスラエルは実際に自分の目で神の奇跡を見て、出エジプトを体験して、神を「知っていた」のに、すぐに忘れて、偶像を拝んだ。そこで神は、祭りを制定した。「神体験」を思い出させる為である。
 日曜の礼拝も、ある意味、祭りである。主の復活を記念しての。復活にこそ、全ての問題に対する勝利がある、ということを思い出す為の。そして、今も生きて働かれる全能の神を体験する(知る)ための。
 その礼拝が、お題目のようになってはならない。「そんないけにえは要らない」と神は言われる。私達は、神を「知る」ことを、本気で、切に、追い求めよう。

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