預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

知らなくてもいい事がある(創世記2:15~17)

 教会に来て、聖書の教えを聞き、「神の言葉に従うのが良い事で、従わないのは悪い事だ」と、私達は知った。そして主イエスを信じて救われたのだから、何が善で何が悪かを知る事は「良い事だ」と言えるかもしれない。では、アダムとエバも、善悪を知る知識の木の実を食べて、何が善で何が悪かを知ったなら、それで良いのではないか、と思える。しかし、神は、それを禁じた。何故か。
 善を行いたい、という願いは誰にでもある。しかし、何故、願うのか。願ってないで実行すればいいのに。
 例えば、神は、「善を行いたい」と願うだろうか。いや、そんな願いを持たなくとも、神のなさる事は全て善なのであって、願う必要などないし、したいのに出来ない、と苦しむ事もない。何故なら、神の内に悪はないからだ。しかし人間には罪がある。ゆえに、善を行いたくとも出来ないと聖書は教える。それどころか、したくないはずの悪を行ってしまう。つまり、善を行いたいと願うのも、そのくせ出来ないのも、罪人だからなのである。
 しかし、罪を認める事は大切だ。罪を認めるからこそ、救われたい、という願いも起きるし、善を求める気持ちにもなる。自分のやっている事が「悪」だと気づかない限り、「何が善か」を知る事はない。つまり、「何が善か」を知るという事は、裏返せば、「これは悪だ」と知る事、すなわち、悪を体験する事なのである。神は、それを禁じた。
 しかし、アダムとエバは悪を体験し、それが悪である事を知り、何が善であるかという事も知った。知らなくてもよかったのに(罪のない世界にいれば、何も問題はなかったのに)だ。そして人は、善を求めるようになり、求めるけど出来なくて苦しむようになった。
 どこに救いがあるのか。それはイエス・キリストだと聖書は言う。罪のない世界(天国)に帰るなら、もはや、何が善で何が悪かと苦しむ必要はない。ただ、現時点において出来る最善は、罪を認める事。そして、何が善であるかを知ったなら、今度は、その善を実行出来るようになりたいと願う事だ。

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