預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

毒じゃない!(創世記1:26~28)

 アダムとエバは、神の言葉を正しく理解していなかったゆえに、蛇に誤魔化され、罪を犯してしまった。その後、人は死ぬべき者となり、悪が満ち、全ての不幸が人の世に満ちた。その始まりは、御言葉の誤解である。それが諸悪の根源と言っても過言ではないだろう。
 確かに、蛇はエバを欺いた。サタンは嘘つきであると聖書(ヨハネ8:44)も教えている。しかし、必ずしも、語ること全てが嘘という訳ではない。本当の中に少しの嘘を混ぜる、これが騙しのテクニックだ。蛇は、神の言葉を微妙に変化させて、巧妙にエバを罪へと誘導した。
 この事から私達は学ばなければならない。御言葉を理解する時に、少しの違いが実は、とてつもなく大きな差を生み出すということだ。御言葉の理解には厳密さが要求される。「どうでもいいじゃないか」と思えるような細かい所も決してないがしろにしてはならないのである。
 さて、神は、園の中央に禁断の木の実を置いた。そして、それを食べてはならない、食べれば死ぬ、と言われた。「食べちゃいけない物なら造らなきゃいいのに、何故…?」と、誰もが疑問を感じるのではないだろうか。ここに誤解がある。
 「食べれば死ぬ」と聞くと、それは「毒」と思うのが普通だ。すると、毒を造った神が悪い、という論法になる。しかし実は、禁断の木の実そのものは毒でもなんでもない。事実アダムとエバは食べても即死しなかったどころか、930年も生きた。そもそも、神が造った世界は『非常に良かった』のであって、神が造られた物は全て良い物だったのである(ヤコブ1:13、17参照)。ただ、神に従うかどうか、という選択を人間が自らの意志でする為に、一つの決め事が必要だった。その為に、あの木の実が用いられた、に過ぎない。要は、禁断の木の実とは何か、それは決して特殊な物ではなく、御言葉に従うか、背くか、の選択の為のきっかけだという事だ。そして、それは、今も私達の回りに沢山ある。病の時に、主に信頼するかどうか。問題の時に、御言葉に従うかどうか。その木の実は、常に目の前にぶら下がっているのだ。

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