預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇119 その⑭(113~120節)

 詩人は神を恐れ、神の掟から迷い出る者への裁きを恐れるがゆえ、自らがそうならないように「支え、生かして下さい」と願う。何故なら、詩人を悪に染めようとする敵(二心の者共)がいるからだ。


 ヤコブは「二心の人達。心を清くしなさい」と言う。心の中に神への信頼と疑いがある(混じり気がある)から、疑いを取り除いて信頼だけ(一つ心)になれということであるが、それは可能なのか。


 そもそも、祈るということは、何らかの心配事・不安があるからではないだろうか。もし神に完全に信頼しているなら、何の心配も無いはずだから祈る必要も無くなるのではないか。しかし聖書は、祈るべきことを教える。するとやはり、完全に心を清くする(神への信頼だけになる)というのは不可能ということではないだろうか。


 勿論、教えにおいては完全に聖くあることが求められる。「聖くなければ、誰も神を見ることは出来ない」(ヘブル12:14)のだ。しかし心はどうか。肉の体と罪の性質を残したまま患難の多い地上で生きる限り、悩み不安は尽きないのではないか。つまり、クリスチャンは誰でも多少なりとも「二心」なのかもしれないのである。


 では詩人が憎む「二心」とは何か。それは「主を神とするか、他のものを神とするか」という迷いだ。エリヤはイスラエルに対して言った。「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。主が神か、バアルが神か」(Ⅰ列王記18:21)と。神の民でありながら他のものを神とする心が混じっている、それが憎まれるべき二心だ。


 そんな者達が自分を迷わせようとしていると詩人は言うのである。現代的には、イエスに仕える者でありながら富にも仕えている(信仰を利得の手段としている)人達であり、多くのクリスチャンを惑わしている。神はそれを憎む。偽りの教えこそが一番の敵なのだ。しかし詩人は、神の御教えを愛すと宣言する。主が隠れ場であり盾だと。


 神を信頼していても、時に不安な気持ちになることもあるかもしれないが、それは仕方がない。完全な人間にはなれないのだから。しかし、神は主イエスだけだ。他に比べるものは無い。どっちつかずではなく、偽りから離れて、ひたすら主の御言葉を愛し主に仕えよう。

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