預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇119 その⑬(105~112節)

 「足の灯、道の光」なる御言葉に従って来たと詩人は言う。ならば大丈夫のはずだが、何故か「ひどく悩んでいる」。御言葉の通りになってない(足元が照らされていない)のだ。


 それゆえ彼は願う。「あなたの裁きを私に教えて下さい」(108節)と。つまり「御言葉を足の灯として従う」人であるにもかかわらず、御言葉を理解していないということだ。それは例えば、数学者が掛算を知らないとか、体操選手が逆立ち出来ないのと同じだ。その人は悩むだろう。致命的に。だから、詩人にとっては、生きる道を見失ってるに等しい。


 神に従いたいけど御心が分からない…クリスチャンにもよくある悩みだ。そんな時に間違った教えに出会ってしまったら命が危ない。詩人も、命がけでいることを覚悟している(109節)。それは直訳では「私の命は、いつも私の手の内にあります」であって、自分の魂をいつでも神に委ねる準備は出来ている、という意味であろう。言い換えれば、御言葉が足の灯、道の光となるために命をかけるということだ。あるいは、天国への道(教え)を守るためなら死んでもいいということでもある。それは決して、極端ではない。もし天国への道を見失ったまま死んでしまったら大変なことになるからだ。主も言われた。五体満足で地獄より、片手片足を失っても天国の方がいいと。実に、永遠の命がかかった(命がけの)シリアスな、重い問題なのである。


 しかし、どんなに重い問題であろうとも、詩人は言う。「あなたの御教えを忘れません」(109節)と。彼は答えを知っている。天国への道(その教え)を忘れてはいけないということだ。


 地上の人生は「荒野の誘惑」のようである。しかし詩人は、神の戒めに留まり、永遠のゆずりの地(天国)を受け継ぐと言う(110~111節)。その為に、真理を悟り従うことに心を傾けると(112節)。


 そういうわけで詩人は、神に従う道を歩みたいと願いながら、神の御心が分からないと悩む…からこそ、御言葉を悟ることに心を傾けるというのである。命をかけて。


 私達も、魂を主に委ねながら、天国への道を守り続ける歩みをするために、御教えを悟ることに心を傾けよう。

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