預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇119 その⑫(97~104節)

 どんなにか、分からないほど御教えを愛している(97節)と詩人は言う。自信満々で自惚れが強いと感じるかもしれないが、これは「愛」とは何か、という問題だ。それは「好き」ではない。神を愛するとは、神の命令を守ることだとヨハネは言う。


 では神の命令は何か。それは「心を尽くして…神を愛せよ」が一番大切な命令だと主は言われた。さあ、神を愛しましょう。どうやって? それは神の命令を守ることだ。ゆえに結局、御教えを愛するとは、教えに従うということなのである。


 つまり詩人は「私は一生懸命御言葉に従いたいと思っています」と言っている、それが97節なのだ。そして、それが「一日中、私の思いとなっています」と。だから、98~100節も自信過剰と思えるが、真意は、神の教えを知らない限りは、どんな知恵者も実は愚かだということなのである。分かりやすい例が、進化論だ。知識も知恵もある学者がそれを主張する。それに比べればクリスチャンは学は無くとも、悟りとわきまえがある(神が人を造ったと知ってる)ということだ。


 で、詩人は悪の道に進むことを引き止めた。神に懲らしめられ学んだからだ。それは苦しかったが幸いだった(71節)、ということである。


 続いて、御言葉は蜜より甘い(103節)と言う。が、御言葉は食べるものではなく、口にする(話す)ものだ。そして「心にあることを口が話す」のである。つまり、御言葉を心に満たし味わうなら、あたかも乳と蜜の流れる地に入ったかのような喜び、平安、感謝が満ちる、ということの表現だ。それが厳しい御言葉であっても、である。それによって、本当の約束の地・天国に入ることが出来るようになる。


 だから、天国に入る為には純粋な御言葉を守るべきなのである。その為に、偽りの道をことごとく憎む(104節)と詩人は言う。曖昧にしてはいけない、一つも取り入れてはいけない、それが、偽りの教えだ。


 詩人は、それを一日中、自分の思いとしている。それこそが、どんな知恵者にも優る(自惚れではなく)悟り、賢さ、英知なのであり、その悟りが敵に勝つ力なのだ。


 約束の地に入る、それが勝利である。その為に、純粋な御言葉に従うことを求め、偽りから離れて、約束の地に入る者となろう。

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