預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇74(攻撃されている)

 聖所(エルサレム)が踏みにじられているから助けて、と訴えている。それは歴史的には、BC586年のバビロンによるエルサレム破壊~バビロン捕囚の事だ。その後、帰還した人々の中にアサフ族がいて、賛美を導く務めを担った。つまり、この詩は、既にバビロンから解放された時点で書かれているという事だ。もう済んだ事なのだ。なのに「今、助けて、早く」と言うのは何故か。「聖所が攻撃されている」とは何の事なのか。これは単に歴史の学びで終わるものではない。この歴史から、信仰の何かを学び取るべきなのである。
 聖所(エルサレム)、それは神の住まいである。そして、それはイスラエル(当時は南ユダ王国)の中心だ。が、イスラエルもエルサレムも、何かを教える為の「模型」である事を忘れてはいけない。本当の意味でのイスラエルとは、神の約束を信じて生まれた子の事である。その「イスラエル」の中心こそ神の住まい(聖所)なのだ。つまり、キリストを信じた神の子供の「内なる人」、それが聖所(神の宮)なのである。その聖所を攻撃する敵がいるという事をこの詩は暗示しているのだ。偽りの教え、惑わしで、真理から離れさせようとする「サタンの策略」である。そして、その策略にやられてしまう人が多いのだ。ユダ王国の場合は、不信仰ゆえについに聖所は壊滅した。そういう事は今でも起きかねない。だから詩人は嘆いて言う。神の御名は永久に貶められるのだろうか(10~11節)と。神の住まい(信仰者の内なる人)が荒れ果てて敵に征服される、それは決して他人事ではない。だから神の助け・憐れみが必要なのだ。吠え猛る獅子の牙に切り裂かれるような事のないように、「山鳩を獣に引き渡さないで」(19節)と。
 私達は山鳩のように弱く、迷いやすく悩む者だ。しかし、「神のもの」「あなたの山鳩」(19節)である。神が買い取って下さった「神の子」(2節)なのである。そこに希望がある。助けと救いの根拠がある。だから、神のものであり続ける事が大切なのだ。すなわち、キリストの教えにとどまる事だ。それが内なる人(聖所)を守る道である。そうすれば、勇気を失うことはない。「力の限りあなたの心を見張って守れ」と箴言にある通り、自らの中に住んで下さる神の聖所を守ろう。

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