預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

神は休まない!(創世記1:31~2:3)

 神は7日目に、全ての創造の業を休まれた。そして、その日を聖とされた。安息日に働いてはならない、という教えは、これに由来する。
 しかし実際は、『父は今に至るまで働いておられます』と主が言われたように、神は休養を必要とするようなひ弱なお方ではないし、常に私達の祈りに耳を傾けておられるお方である。『ですからわたしも働いているのです』(ヨハネ5:17)と言って、主は、安息日にも癒しを行われたのである。
 つまり、神が『創造の業を休んだ』というのは、『創造の手を置いた(手を離した)』ということだ。何故なら、完成したから。『非常によかった』というほどに、もう何も手を加える必要のない、完全なシステムが出来上がったからである。ゆえに神は、全てをご自分で直接コントロールしようとせず、自然の成り行きに任せられた。その後、世界は神の秩序に従って、自分で動き始めたのである。
 さて、ヘブル4:10に『神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです』とある。それは、クリスチャンは日曜日は休め、というような単純なことではない。
 そもそも、神が創造の業を休んだのは『完成したから』である。もう何も心配が要らない、成り行きに任せて大丈夫な完全なシステムが出来たからである。それと同じように、信じた者も休む。すなわち、神の完全なご計画の中で何も思い煩わないで、神に信頼して生きるように、ということだ。それが本当の意味で、安息に入る、ということである。逆に、神に頼らず、自分の力で(この世の考え方で)生きようとする人のことを『落後者』と聖書は言う。そして『そうならないように力を尽くして努めなさい』と。
 私達に将来と希望と平安を与える、神の完全な計画の中に生きる者となれるように、全力で主に信頼しよう。

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